デジタル教科書の導入と効果の議論

 文部科学省の平成26年度予算概算要求が公表されました。

 国家のIT戦略から「教育の情報化ビジョン」に至る政策の反映として,「情報通信技術を活用した新たな学び推進事業」の要求枠が設けられています。

 ちなみに,総務省では「ICTによる社会的課題の解決と豊かな生活の実現」という施策の中で「教育分野におけるICTの活用」の枠が用意されたようです。(これに対応する文部科学省側の枠は「先導的な教育体制構築事業」)

 文部科学省にしても,総務省にしても,どちらも「新しい日本のための優先課題推進枠」として要望を出すかたちにしています。 —  文部科学省の事業イメージによると…

確かな学力の育成に資する授業革新促進事業 〈補助事業:補助率1/3〉 H26要望額:17億円 3年間で100地域(H26:40地域)を拠点地域に指定 ICT教材を積極的に活用して、子供たちにとって楽しくわかる授業等を実施 40地域×@1.3億円×1/3(補助率) ※主な対象経費 協議会の開催、教材費、外部人材(ICT支援員等)の配置、備品 等 ○具体的な取組例 企業等が協力した教材を用いた楽しく学べる授業の実施 離島や外国などとの交流や協働学習を実施 ICT機器を活用した授業サポーター等として外部人材を配置

 となっています。

 (※なお,これは概算要求段階の内容で,今後却下される可能性も残ります。)

 これに対応する新聞報道としては…

タブレット端末購入に補助…ICT教育で文科省」(読売新聞)

 があります。またいくつかの地方自治体がタブレット端末の学校への導入を準備しているといった報道もチラホラと流れてきて,ふたたびデジタル教科書界隈が慌ただしくなってきた感があるようです。

 さて,そんな動きもあってか,ここ数日,言論プラットフォーム「アゴラ」上でこんな議論が展開されています。

 「1人1年1万円でデジタル教科書を — 中村 伊知哉
 「デジタル教科書の導入を急ぐ前に – 辻元
 「デジタル教科書のメリット・デメリットなど、今さら議論は不要 – 山田肇
 「(続)デジタル教科書のメリット・デメリットなど、今さら議論は不要 – 山田肇

 中村節はいつものことなので置いとくとして,辻氏と山田氏の発言は,真っ当な部分と当てが外れてしまっている部分とが混在していて,モヤモヤ感が満載でした。

 辻氏の実証実験など研究成果をもとにした丁寧な議論を…という呼びかけは正しいものと考えます。ただ,この手の実証実験を納得のいくかたちで実現するのは大変困難で,多様な変数を統制して学力向上の結果を得る発想の研究成果を導入の是非に採用するのは,あまり得策ではないように思います。

 一方,山田氏の学習指導要領を根拠とした記述は辻氏への返答としては雑過ぎで,続く記事で挙げた効果に関する研究知見はご同僚の松原氏の報告やかつてメディア教育開発センターが受託研究した成果を引用したスライド,フューチャースクール推進事業のガイドラインを示してはいるものの,これも思いつくところ検索して紹介した感が強過ぎて雑に見えることが残念です。

 コメントで展開する議論を眺めても,どういうデジタル教科書あるいはICT機器を,どんな対象に向けて,どういう目的で使用するのか,議論がごちゃまぜなので,良い部分もあれば悪い部分もある中で,あとは各人が好き勝手に摘み食いしながら発言が展開してしまっています。

 先日「学習支援という補助線」を踏まえて,学習支援あるいは学習保証(学力保証以前の学習する・出来ることを保証すること)を真剣に考えることが,教育におけるICT活用に対するフレームワークを再構築するのに役立つのではないかと私は書きました。

 まだ全体の見取り図は描けていませんが,「学習支援・保証」「知識定着」「知識構築支援」「指導向上」といった効果セグメントを明確に分けて考える必要があるのではないかと考えています。

 もちろん学年,学校種といった発達段階の違いについても掛け合わせ毎に丁寧な区別をした議論を展開すべきと思います。ICT機器の特性もモノによって異なるでしょう。

 その上で,ICT機器導入の根拠を求める際には,学力に対する効果といった漠然とした問いを避けるよう啓蒙しなければなりません。少なくとも上記の効果セグメントのいずれかに焦点をあてて,その範囲に限って効果がどうあるのかを主張すべきと考えています。

 そういう意味では,辻氏が指摘するように,その前提での実証的な研究の成果を早急に示すべきでしょうし,あるいはこれまでの成果をそのような枠組みで見直して提示する必要があるのだろうと思います。

 今さら議論は不要という主張は,政策的な推進を優先する立場からすれば自然なことなのかも知れませんが,残念ながら世の中には政策に重きを置く研究者ばかりではありませんので,今さらどころか,今から議論が未来永劫続くことを覚悟していただかなければなりません。

(追記:20130901)  辻氏からの返答「コンピュータ支援教育の問題点について – 辻元」が公開されました。懸念点を「主体的な思考の育成には役立たない/注意散漫さを助長する」といったところに焦点化して書かれたようです。

 児童生徒が常時端末を携帯し,あらゆる学習の場面に利活用する情景を思い浮かべていらっしゃるようですが,学校がそのような条件で端末を使用するためには,それなりの学習規律が育成されていると考えるべきでしょう。またそうでなければ,利活用の場面をある程度制御して使わせるのが学校教育として当然の受け入れ方です。

 デジタル教科書議論をされる方々の中には,学校教師の経験者や塾講師の経験者の方もいらっしゃるはずで,授業づくりや学習場面設定が到達目標をまったく無視して行なわれることはないことぐらい理解しているはずですが,議論になると未経験者も入り乱れるためか,まるで授業や学習では目標や文脈も考えずにデジタル教科書や端末を使うかのように想定されてしまいます。

 懸念を説明されるために仮説を提示する必要はあろうかと思いますが,そのような使い方がまずい場合の問題点を,道具を使う事自体の問題点のように誤解を与える指摘の仕方で取り上げるのはフェアとはいえないと思います。

 デジタル教科書を含むICT機器の利活用を前提とした指導方法や学習規律がどんなものであってどう研修・育成していくのか。この問題は少しずつ関係者によって取り組まれているところであり,それは今後教育が続くかぎり通底する課題であることを理解しなければなりません。

(追記20130902)  山田氏から「(続々)デジタル教科書のメリット・デメリットなど、今さら議論は不要 – 山田肇」が公開されました。

 山田氏は藤井大輔氏と松原聡氏と共同で「わが国のデジタル教科書の在り方」というデジタル教科書の普及に関する政策的な流れと課題を論じた論文を発表しているので,デジタル教科書に関しては一定の知見を持つ専門家となります。

 ただ政策論的な問題関心を持つ人々は,教育的な妥当性自体には関心が薄く,政策的な根拠となる文書の有無や妥当性に関心があるだけなので,あらかじめ論点をすり合わせたり立場を申告し合わないと,議論が遠回りになりがちです。

 結果的には,同意や承認されると態度が軟化したような,ありがちなパターンで今回の議論は幕引きされちゃう雰囲気です。辻氏の次の発言とつながるのかどうか分かりません。

 多くの人々が配信を受けるブログメディアに登録している辻氏や山田氏のようなブロガーの人たちが,デジタル教科書について関心を持って議論してくれることは良いことではありますが,正直なところ議論がうまく運ばれず雑過ぎて,デジタル教科書の議論自体が質が低いと思われること自体が悲しいなと思います。

20130830 滋賀大学教育学部附属中学校 公開授業 研究協議会

 滋賀大学教育学部附属中学校の研究協議会が2013年8月30日に行なわれました。

 ご縁をいただいて私が来賓研究者として参加してきました。先月に集中研修会にお邪魔しましたので,そこからの成果が披露されたという次第です。

 「思考力・判断力・表現力」という並びのトリオは見慣れたもの。

 その中でも思考力と表現力については多くを語られているにも関わらず,判断力はどこの文献も言葉少なで,ほとんど思考の中に埋没した扱いとなっています。

 滋賀大附属は,その「判断」に着目して、これを思考から表現への「つなぎ目」として捉えて授業研究の軸に据えるというのです。

 依頼を受けた私は,その着眼点の良さに感心しました。

 私自身かねてから,思考の中で織りなされる「判断」と,あえて思考と並列して記述している「判断」との違いが曖昧だと感じたことがあったので、これは挑戦してみる価値のあるテーマだと思ったのです。

 とはいえ,まだ「判断」あるいは「判断力」というものが何であって,どう育んだり評価すればよいのか,蓄積が十分あるわけではありません。

 今回の公開授業も,研究協議会も,その点については模索状態であったと思いますし,私の講演内容もどこか言葉遊びを通して手探りしていたことは否めません。

 しかし,問題提起と疑問が生ずるところには,様々な問答や対話が発生します。

 私の乱暴な講演が終わってから,幾人もの先生方と言葉を交わし考えを掛け合わせて,興味深い見解に至るものもありました。

 学校という場は(原理的には)「知識伝達」を前提として成立したものですが,昨今では「知識構築」(または知識創造)の実践が求められています。

 一般的には「工業化社会」から脱して「知識基盤社会」が到来していることにその根拠が求められていますが,つまりそれは従来の知識では対応できない自体が増えているということでもあろうかと思います。

 あたらな知識の構築(知識創造)が必要とされるのは,新しい事態に対応できる新しい情報や規則といったものを生み出さなければならないためであり,そのための能力や技能こそが育成されなければならないわけです。

 これを「判断」というキーワードから眺めると,従来までは社会に立ち向かうに必要な判断のための「判断材料」と「判断基準」をふくめて学校教育の中で「知識伝達」してきたのであり,それで通用する時代がこれまで続いてきたのですが,いよいよ社会が変わってきたことによって,それが通用しない時代へと突入したのだと思います。

 そうなると学校教育は,従来の「判断材料」と「判断基準」を含み込んだ知的財産を後継に伝承するという「知識伝達」のみならず,新しい時代に対応した判断のための「材料」と「基準」を児童生徒自ら見つけたり生み出す「知識構築」ができる能力の育成を新たな仕事として抱え込むことが求められているわけです。

 また「知識構築」能力の育成と構築した知識を「遵守あるいは活用する意欲や態度」の育成とは,また違う課題でもあり,扱わなければならない領域は広いといえます。

 「知識伝達」を前提として成立し,極力そこに最適化してきた日本の学校が,そのままの条件で新たに「知識構築」能力の育成までを担うことは無茶な注文をしているとしかいいようがありません。本来であれば,潤沢な予算と規則の緩和などが優先的に検討されるべきですが,いまのところ従来と同様に「根性で乗り切れ」となっています。

 こうした悔しい現実がある中で,それでも「判断」というものを軸に学校教育をどう再構築するのかといった青写真を描くのも興味深い議論と思います。

 そんな議論をしていくと,日本人の態度保留傾向や若者の迷惑行為の背景など,様々な自省についても関係が読取れる話まで発展するのですが,それはまたの機会に。

20130826-29 集中講義「カリキュラム論」

 今年も椙山女学園大学で集中講義「カリキュラム論」を担当しました。

 4日間,朝から夕方までカリキュラムと授業に関わる知識を学びつつ,指導案づくりに取り組む内容となっています。

 数えてみましたら,11年目に突入。演歌歌手のように持ち歌を歌い続けて早幾年といった感じです。過去・現在・未来の話をたとえ話交えてしゃべり倒していました。

 集中講義の間は,午前午後にコメントを書いてもらっています。

 授業内容に関する感想を書いてもらいつつ、質問があれば午後や翌日に返答するということを繰り返します。

 そういう対話の姿勢は認めてもらえるようで、講義に対する学生達の印象も決して悪いものではありません。授業内容が学生達に届くものであるのか,いまいち自分でも分からなくなっているのですが,たとえ話が充実していて分かりやすいと学生達は評価してくれているので,たぶんお役に立ったのだとは思います。

 今年もよい受講生に恵まれました。

学習支援という補助線

 先日,とある学会で小学校の先生と意見交換をしていました。

 その先生から聞かれたのは…「ICTを活用して学力向上した研究成果って,何かありますかね」という問い。

 ああ,またその問いか…という気持ちも湧いてくるほど,「ICT活用と学力」というテーマは,誰もが常に気にしていながら,何かしらの決着付かぬまま漂い続けています。

 「ICT活用は学力向上に結びつく」とする確証的な知見を示せていないことや,仮にそのことを示し得る研究成果を提示しても万事に通用しないからと信じてもらえない現実もあります。

 別の方には「学力向上に結びつくとする研究成果を是非整理して教えてください」と言われていたりします。

 ぱっと思いつくのは…2005年頃に(当時存在していた)メディア教育開発センターが受託した研究「ITを活用した指導の効果等の調査」や2006年頃の和歌山大学で行なわれた「長期・常時のICT活用授業の学力向上への影響研究」とか2007年頃に松下教育研究財団研究開発助成による研究「教科指導における知識理解の領域へのICT活用の効果」などといったもの。

 その他については,小柳和喜雄先生が整理されていますが,文部科学省が「確かな学力」の施策のために行なっていた「学力向上フロンティア事業」(学力向上アクションプラン)や「学力向上拠点形成事業」(H17-19)および「学力向上推進研究事業」(H20-22)における授業研究の方法とICT活用について論じたものがあるくらい。

 もちろんICT活用の研究は数多いので,それぞれでどのような効果があったのかが論じられており,学力に対しても触れたものは数知れず。

 なんだ結構あるじゃないという風でもあるし,それは研究の範囲に限定されてる話でしょと言われれば否定も出来ないし…。

 なぜこうも決着付かずのモヤッと感があるのかといえば,木原俊行先生が指摘されていた通り,「学力は多様な要素から成るものであるから、両者(ICT活用と学力:引用者注)の接点が一つに限られない」からです。

 先ほどから安易に使っている「学力」という言葉が何を指しているかも様々ですし,ICT活用の意義や目的も様々ですから,「ICT活用と学力」がモヤッとするのは当然というわけです。

 学校にICTを導入する費用対効果を示すために,どうしても学力が向上するといった確証が欲しい。とはいえ,ペーパーテストの点数のような学力が絶対的に上がりますという自信に満ちた根拠を示すのはなかなか難しい。

 さらに保護者や地域の皆さんも「道具の問題じゃなくて,先生の指導方法の影響が大きいんじゃないの?」ぐらいの突っ込みは当たり前にされますから,これに「その通りです」と言おうが「そうでもないです」と言おうが,ICT導入への理解と納得を得るのは至難の業といえます。

 この状況を打開する術はないものか…。

 たぶん,私たちはそうした堂々巡りの末にまたもや「ICTを活用して学力向上した研究成果って,何かありますかね」という冒頭の問いに帰ってくるのだろうと思います。またしても堂々巡りを始めるため…。

 しかし,私はもう一つ別のモヤッと感を「ICT活用と学力」の話題に抱き続けていたのでした。

 それが何なのかをずっと考え続けていたのですが,冒頭に出てきた小学校の先生との意見交換の中で,ようやくそのモヤッと感を掴まえる補助線を得たのです。

 私たちは日本の学校の現状を正しく「前提」していないということ。

 その前提に基づいて,これまでの知見を受け止める準備が出来ていなかったことが別のモヤッと感であることに気がつきました。

 この日本では,子ども達の貧困という問題が見かけによらず大きく横たわり,家庭の問題も割合としては限られているとしても深刻化しています。まして,将来世代の負担増あるいは財政的虐待など,先進国「日本」に相応しい現状といえるのか,理想と現実という悩ましい問題が山積しています。

 そのような社会状況の中にある学校が,問題と無縁でいるはずもありません。

 すでに「子ども達の変化」として周知の現実が訪れています。

 たとえば,皆さんもニュースで報じられてご存知かと思います。発達障害の可能性がある児童生徒が普通の学級に6.5%の割合でいるという調査結果のことです。  元の調査は平成24年12月5日に公表された「通常の学級に在籍する発達障害の可能性のある特別な教育的支援を必要とする児童生徒に関する調査結果について」です。

 ニュースで取り上げられた部分は,あくまでも教師が支援を必要とすると考えたものですが,「学習面又は行動面で著しい困難を示す」児童生徒の割合が6.5%となっています。

 (この6.5%は,「学習面で著しい困難を示す」児童生徒の4.5%,「行動面で著しい困難を示す」児童生徒の3.6%の総和から重複している「学習面と行動面ともに著しい困難を示す」児童生徒の1.6%を引いたものとのこと。駄文公開当初,単純合計してましたが,重複あるとのご指摘いただきました。感謝。)

 さらに教師がどれくらい配慮・指導を行なっているかについてもいくつか設問が掲げられており,様々な取組みが行なわれていることが分かります。

 このニュースは分かりやすい事例の一つですが,学校を卒業した大人の私たちが想像する以上に学校の現実は変わっていますし,教育の取組みの多様さと苦労が増していることをハッキリと認識する必要があるように思うのです。

 極めて多様なニーズに応える教育。

 それは「特別支援教育」となった領域が取り組んできたものです。かつて特殊教育と呼ばれたこの領域は,現在大きく様変わりをしています。また,ICT活用に関しては支援機器の有用性について数多く語られてきました。

 ところが私たちは,昔のイメージを脱し切れずに,特別支援教育とそのICT活用について「別枠」扱いしてきたように思います。

 私は,いまこそ特別支援教育が展開しているICT活用の蓄積を学び,多様なニーズに向けた学習支援の手段として明確に位置づけることが必要なのではないかと気がつきました。さらにそれとは別に,高次な学習活動を支援するICT活用とあえて区別していくことが重要なのではないかと思えたのです。

 こうすることで,私がずっと抱いていたモヤッと感を追い払えそうな気がします。

 小学校の先生との意見交換の中で,私たちはICT活用の影響(効果の効き方)について,上記のような認識をもとにした仮説をもって,これまでの諸説について思考を巡らしてみたのですが,かなり筋が通る感触を得て思わず膝を打ちたくなりました。

 そのようなことは雑談レベルでならこれまでも多くの先生方や研究者が指摘していたことではあったと思います。ならば,それをハッキリと明示していくことが今後は重要になってくるのではないかと思うのです。

 ただし,そうした調査や研究が大変デリケートな内容のため,倫理的な配慮を優先すると表に出し難いという問題があります。

 今後は,その点についても特別支援教育の世界にもっと学ぶ必要があるでしょう。

 学術研究や文部科学省における取組みにおいても,特別支援の部分は専門性の高い独立した領域だと捉えられがちで,連携することがなかなか難しかったのですが,今後はもっと交流を増やすべきです。

 以上のようなことを,私自身ももう少し整理して説明できるようにしたいと思いますが,願わくは他の皆さんにも,その妥当性など検討してもらい,モヤッと感を減らしたICT活用教育の新しいイメージを全体で紡ぎ出せたらと考えています。

OECDという組織と新しい時代の学力

 日本の教育政策は「教育振興基本計画」という計画のもと進められています。

 しかしながら,教育振興基本計画という言葉も,その動きについても,多くの教育関係者には届いていないというのが実情で,一般の皆さんにいたっては,本当にそんなものが進んでいるのか信じられない方も多いと思います。

 基本的に,日本で何かが起こっていることを感じるには,マスコミに頻繁に取り上げられて,話題にしやすい物語にならないと難しいかなと思います。

 特に教育関係は,ネガティブな出来事の方がマスコミ的に話題にしやすいため,淡々と進行している取り組みは存在しないも同じのようです。

 従来の知識伝達・知識注入で達成する学力だけで立ち向かうことが困難な世の中になり,むしろ複雑な状況にも対応し得る新しい知識を生み出せる知識創造的な学力の育成こそが今後重要なのだ。

 こうした考え方に基づいて,教育振興基本計画は「自立・協働・創造モデルとしての生涯学習社会の構築」と4つの基本的方向性を打ち出しています。

 ところで,一つ戻って…知識伝達から知識創造の時代に変わっているといった考え方は,どこからきているのでしょうか。

 これは国際世界にも流れている見解で,「21世紀型スキル」という新しい学力の考え方とセットで世界中の学校教育で注目されています。

 もう21世紀も10年経過してしまいましたけれど,「21世紀型スキル」という言葉が一般に人々に届かないのは,なかなか心苦しいところです。  苛ついた私はこんなツイートしていました。


 いじめ問題がトップなのは,それが重要な問題である以上当然ですが,それにしても他の項目について見直しが足りないんじゃないの?という皮肉でありました。

 この世の中は変わったので21世紀型スキルのようなものが必要だという考え方を広く流布する役目を負っているのはOECD(経済協力開発機構)という組織です。

 前身がヨーロッパの経済組織であったOECDが,なぜに世界の教育政策の分野に深く関与しPISA学力調査の実施にまでいたるのかの経緯については,福田誠治氏による論文「ヨーロッパ諸国の教育改革からの示唆」でまとめられています。

 もともとは,ヨーロッパ諸国が統一するににあたって必要とした「協力社会」という考え方と,複雑な世の中を生きるために絶えず自己学習する必要のある「生涯学習」という舞台の必要性を,教育に影響力を持ったOECDが国際的に認知させたといえそうです。  

 PISAまでの流れを論文をもとに,かいつまんでご紹介すると…

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・1968年に「CERI(教育研究革新センター)」を創設した。 ・関係国の思惑複雑な中,1988年より「国際教育指標事業」を開始。
 →指標公表の積み重ねによって徐々に影響力を増す。

・1990年代にOECDのCERIは,従来の学力調査では学校教育の重要な部分が測定されていないために,学校が十分な力を発揮していないのではないかと考える。
 →PISA国際学力調査の誕生へ

・では何を測るべきか
 →「教科横断的コンピテンシー」(コンピテンシー:実践的な能力といった意味)
 →実社会から学校教育の目的設定を試みる(DeSeCo計画のスタート)
  人間が望ましい社会生活を送るのに必要な力

・2002年末にDeSeCo最終報告 〜汎用能力としての3つの「キー・コンピテンシー」
 →「異質集団の中で相互交流する」   「自律的に行動する」   「相互交流的に道具を使用する」

・「キー・コンピテンシー」から測定可能な形で取り出したもが「リテラシー」
 →「言語・情報リテラシー」(読解力)
  「数学的リテラシー」
  「科学的リテラシー」  →PISAはDeSeCo計画が結論する前に見切り発車して実施された。

・PISAにおいて「省察,それはキー・コンピテンシーの心臓」
 →キー・コンピテンシーをつなぎ止める決定的な能力として「省察(reflectiveness; reflection)」ないし「省察的な思考と行動」に着目。

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 このようにPISA調査は従来の学力調査(たとえばTIMSSなど)では捉えられていなかったものを測定しようとしたのであり,知識伝達中心の学校教育だけでは対応することが難しくなっています。

 フィンランドでは,1994年からすでに新しい学力に向けたカリキュラム改革が始まっていたため,PISA学力調査に対して高成績がとれたともいえます。

 DeSeCoのキー・コンピテンシーもPISAの「リテラシー」も21世紀型スキルと銘打っているわけではありませんが,いずれも新しい時代(つまりは今日)に必要な能力を描いているという点で21世紀型スキルの議論に深く関係します。

 日本では,「学びのイノベーション」という呼び方で,新しい時代の学力に対応した学校教育を生み出そうと取り組まれています。  これもあまり知られていませんが,とにかくそういう動きがあります。

 一体,何を目指しているのでしょうか。

 それは「一人ひとり異なる特性をもった児童生徒が,学級やグループの学習活動で関わりあうことを通して,気づきを得て自らを変化させたり,児童生徒同士の知識が掛け合わされることによって新しい知識が生み出されること」です。

 教育振興基本計画に「自立・協働・創造」という言葉がありますが,そのようなキーワードも踏まえて,このような場面を積極的に取り入れた授業をつくり出していくことが目指されています。

 もちろん,これまでも授業の中にそのような場面や瞬間は多々あったと思いますが,今後は,それを意図的にねらって授業づくりして欲しいということです。

 その際,新しい時代には「ICT機器」といった避けることが出来ない道具も登場しているので必要があれば活用することも奨励されているわけです。もちろん必要なければ遠ざける術も学ばせなければなりません。

 こうした考え方が日本の学校教育に浸透するためには,まだ時間がかかることを覚悟しなければなりませんが,少しずつ前進していることは確かです。