不安からの脱却

2020年5月25日に緊急事態宣言が全面解除されました。

すでに文部科学省からは学校再開に関わる通知やマニュアルが出されています。

感染症対策の「学校の新しい生活様式」をしつつ,児童生徒の「学びの保障」を行なうことが求められています。

社会一般でも「ニューノーマル」という言葉が時折取りざたされて,新しい常態,つまりは今後の日常生活・社会活動の常態になる新しい様式とは何かを議論することが増えています。

これまでも「働き方改革」と言い続けながらも大して変わらなかった労働形態も,「在宅勤務を標準とする」といった企業(日立など)が出てきたり,今回の新型コロナウイルスの事態に関わって大きな転換も起っています。

しかし,学校再開とは,慣れたあの日々の再開。

感染症対策の要求水準が高いという点は特別な事態ではあるけれども,マニュアルに従って最善の努力を続けることが学校の責務なのだという考え方は全国的に根強いと思います。

平成29年改訂の学習指導要領が主張していた新しいスローガンも,休校によって進行に遅れが出たおかげで,その遅れの取り戻しを優先することで,閑却できる余地も生まれました。

この不安な事態からの脱却のために,少しでも早く,あの日々を取り戻して子どもたちに平安を届けたい。多くの学校関係者が感じていることだと思います。

不易流行の「不易」を担っているのが学校教育だと,そう信じる先生方は少なくないのです。

一方で,新型コロナウイルス感染という危機的事態に直面し,私たちの社会の旧さや脆さが改めて表面化したことに憂いを感ずる人たちも多いです。

その憂いの大きさは,文部科学省がすすめるGIGAスクール構想の担当課長さんをしてYouTubeで強いメッセージを語らせるまでに至っているとも,受け止められています。

こんなことはいままでなかった…と。

21世紀に入って来年で早20年。

パソコンブームが起り,マルチメディアを垣間見て,IT講習に駆り出され,ネットバブルに沸き散って,ケータイ・スマホで繋がりあい,4K動画でネコを投稿する,目まぐるしいIT/ICT社会の変遷を辿ってきたにも関わらず,国民の銀行口座に10万円を振り込むこともままならない事態が依然起る日本。

こんなチグハグな状態を,これからも常態化させたままでいいのか。

突如として始まった臨時休校とその後の長期休校で,あれほど不易の強みを誇っていた学校教育が,実は何の備えも進歩もしていなかったということが明るみに出たことも,保護者たちにこういう感情を抱かせることとなりました。

旧態依然の学校教育を常態化させたままでいいのか。

学校教育関係者は,そんな保護者や社会の不安を知りませんし,むしろ望まれているのは学習の遅れを取り戻すための「学びの保障」だと確信している。

奇をてらった新機軸を打ち出すものは,学習指導要領改訂にしろ,9月入学にしろ,単に不安を呼び起こすものに過ぎない。長期に危機にさらされ,今後も不安を抱えた分散登校の日常を送る児童生徒および教職員にとって,不安の回避とそこからの脱却こそ,いま必要なものだ…と考えている学校教育関係者がいたとしたら,私たちは何と返すべきでしょうか。

さて,これを書いている私はどっち側の人間?と思われる方もいるかも知れません。結局,変わらない方がいいの?変わった方がいいの?と。

おそらく私は,こういう「構図になっていること」自体に違和感を感じて,こうした文章を書いているように思います。

前回のブログ記事に書いたように,私は「先生たち自身が学習できる職場として」学校が転換することを望んでいます。つまりは,変わった方がいいということでもあります。

ただ,このことは,仮に個々の学校教育関係者がどんな主張や考え方に立っていたとしても,それらを互いに議論の俎上に乗せて学び合うというコンセンサスにもとづいて共生することをイメージしています。

児童生徒学生の学習が阻害されないということはもちろんのこと,教職員自身の学習あるいは研究が阻害されないという前提に立てば,何がダメとか,何は出来ないとかいうことを越えて,どうしたら良くなり,どうしたら出来るのかを考えることに繋げていかざるを得なくなります。

首長も教育長も,首長部局も教育委員会も,そして校長や教職員が,そういうマインドを持つことが大事で,実際,そういうマインドを持つ人が多いところは,わざわざ制度化やルール化しなくてもそうなっている例が見られます。

消極的な不安からの脱却ではなく,学習によって積極的に不安から脱却する,むしろ不安からの脱却を楽しむといった場になることが,いま必要なのではないかと思うのです。

学校を先生が学べる職場に

2020年5月14日に39県に対する緊急事態宣言解除が発表されました。

それに伴い,各地で分散登校等の対応を含めた段階的な学校再開が動き始めています。文部科学省からの矢継ぎ早の通知も「学びの保障」を前提に年度を越えた扱いに関して言及しています。

新型コロナによる不安な状況は,長期にわたる学校休校という事態をもたらし,眼前に児童生徒学生を集めることができないことを想定していなかった教育関係者を慌てさせました。

そのことによって,これまで教育ICTを遠ざけてきた教育関係者でさえ,その必要性を考えなければならない当事者に立つことにもなりました。

遠隔教育あるいはオンライン授業といった教育方法が,今後,現実的な選択肢として取り組まれなければならない。そういう時代が訪れたわけです。

この事態が発生する前から,AIという技術がもたらした盛り上がりとともに,単なる知識伝達だけに終わる教育機関への懐疑論が賑やかとなり,従来型の教師は職を追われるとか,あるいは公立学校は潰れるといった机上の論も未来予測的に展開していました。

そして,2ヶ月に及ぶ学校休校という今回の期間に,私たちは学校というものの存在について,真正面から考える機会を与えられました。

家庭から児童生徒を預かり養護する機能が,いかに経済社会にとって大きな貢献をしていたかが再認識されました。

児童生徒の学習を指導支援する機能が,いかに専門的な職能であるかを認識した保護者も多かったのではないかと思います。

また一方で,学校がもつ家庭や地域社会とのコミュニケーション手段がきわめて脆弱であったことが緊急事態によってあぶり出されもしました。

学校という場を離れざるをえない児童生徒に対して,教育的な働きかけをするための人的・物的・経済的な資源が普段からほとんど備えられていなかった現実も明るみに出ました。

全国で教育機会が均等であることが義務教育や公立学校の最大の特徴であると,そう信じることが最後の砦であった日本の学校教育で,今回の事態において各地での取り組みの差があからさまとなり,機会格差は進行していて均等などなかったことを報道等で目撃するに至っています。

そんな状況だからこそ,形式上の均等を取り戻そうとするような言動に対して,一層の懐疑的なまなざしが向けられることとなり,為政者や教育関係者に対する不信感が増長している部分もあります。

いっそのこと,託児養護機能と学習支援機能を再構築した新たな場を求めて,従来の学校を廃棄すべきではないのか。そんな極端な提案さえ,あるいは現実的な検討課題になり得るのではないかと思わせる,そういう学校休校期間ではなかったかと思います。

かろうじて緊急事態宣言解除の流れをつかみ取り,新しい生活様式を踏まえた日常にもとで,生活や学校,経済活動を段階的に再開することとなりました。

少なくとも年内は,第2波以降あるいは新たな脅威の到来に対する備えに動くことができる猶予期間を与えられたと考えることが妥当かと思います。

個々の家庭や職場における備えはもちろんですが,学校が行なうべき備えは何なのでしょうか。そして今後,学校という場はどうあるべきなのでしょうか。

まず必要なのは,学習指導要領の再確認ではないかと思います。

平成29年改訂の学習指導要領が目指している方向性を確認することは,重要なことだと私は考えていますし,むしろこのような状況に遭遇したからこそ,なおさら,そのことに意味があるように思います。

誤解を恐れずに言えば,仮に令和2年度が何事もなくスタートしていたとしたら,平成29年改訂学習指導要領に掲げられた理念は,新しくスタートした取り組み(小学校英語やプログラミングなど)の苦労話ばかり注目されて,単なるスローガン止まりだったろうと思います。

「主体的・対話的で深い学び」を,いまこうした状況下で検討した時,皆さんの中でも,昨年度末と少しは異なるイメージが展開するのではないかと思います。少なくとも分散登校や今後の脅威への備えを前提にしなければならない学校教育でどう実現するのか,その方法は新たに模索しなければなりません。

そうしなければ,今後の危機毎に,学校機能の停止という事態を招き続けることになり,学校は潰れてしまうという机上の論は,いよいよ現実の論として具現化してしまいかねません。

勝ち逃げ世代の教育関係者にとってはそれでもよいのでしょうが,そのことによって損を被るのは次世代,つまり児童生徒学生であり,若い世代の学校教育を担い社会をつくっていく関係者です。ひいては将来の日本にとっても。

学習指導要領を再確認した次は,必要な道具立てをすることです。

その重要性においても,またタイミング的にも,教育ICT環境の条件整備は推し進めておくべき取り組みでしょう。

GIGAスクール構想とEdTech導入に関して,前例にない規模の予算が確保されたのですから,対応しない方がどうかしています。2020年5月11日に一般にも公開された形でライブ配信された説明会が話題となっていますが,そうした追い風は,乱気流を伴っているとはいえ,掴まえておかなくてはなりません。

ただ,児童生徒1人1台分の情報端末を導入するというGIGAスクール構想やEdTech導入は,説明されているほど簡単な話ではありません。

その大規模な導入を短期間のうちに全国津々浦々で実現させようという話が,いかに非現実的で過酷な要望であるか。大量の機材確保の可否や専門的な知識を必要とする工事設定作業,そのために必要な人材や専門事業者の不足,にもかかわらず限られた枠に抑えるための厳しい予算制約など。

平時においてさえ困難な条件にも関わらず,緊急事態に伴う悪条件で駆け込み的に取り組まざるを得ない状況は,最大限の配慮を効かせなければ,後で取り返しがつかない事態を招くことも肝に銘じておきたいものです。

すでに学校のドメイン取得に関して,クラウドプラットフォームとの契約に関わり混乱が生じています。

学校や市町村ごとにバラバラのルールでドメインを取得している状況では,それが学校の正規ドメインかどうかを確認することを難しくしてしまいますし,今後,仮にドメイン詐称対策をする場合も個別にやらなくてはならないなどの手間が問題となり,セキュリティ対策を難しくしてしまう弊害になるかも知れません。

学校という場の未来をアップデートするためにも,先生達が学びを実践できる場所や文化に生まれ変わらせる必要があります。

改めて,今回の新型コロナに伴う学校休校で見えてきたのは,学校という場の「旧いかたち」を前提として働かざるを得ずにきた学校の先生方の窮屈な現実だったともいえます。

「旧いかたち」は,児童生徒学生が学校にやって来ることを前提として,欠席した児童生徒学生はいくらかの不利を甘受しなければならず,自らに相応しい支援を受けることが特別扱いだと受け止められ,定められた範囲と進度に沿って学校活動を展開することばかりが尊ばれ,家庭とのやり取りでは連絡事項を児童生徒学生に伝書鳩のごとく託し,遠い昭和な時代の規格に合わせて作られた空間に密集して授業や学習を行い,その活動に必要なものの購入は前年度に計画して予算を確保しなければ叶わず,学校図書費も教材費も限られ教育研究費のような割当もなく,先生達は授業や校務で多忙を極め授業準備に割く時間の捻出に苦労する。etc, etc…

少なくとも学校は,先生達自身が何か新たなことを活き活きと学習する機会を持てるような環境条件になっていません。そんな先生達のもとで,児童生徒学生だけが活き活きと学習することを,どうして期待できるのでしょうか。

分散登校や段階的な学校再開という期間は,先生方が教え手だけでなく学び手として学校という場に関わる「新しいかたち」を生み出すよい機会だと思います。

それは周囲の人々との関係性やコミュニケーションの仕方を変えてみるということですし,そのために教育ICTといった道具も役立てられるはずです。

教育委員会関係者や学校長等も,この機会に学校という場を先生達をも学習者として含めた学習のコミュニティとして「新しいかたち」に変えていく配慮と努力をすべきです。

この社会で新型コロナの影響は何もなかったということがない以上,学校教育として今後は何を考えていくべきか,それぞれ意見を出し合うべきと思います。

「新しいかたち」もそうした議論から紡ぎ出されていくと思います。

教職は単なるコンテンツ・デリバリー業ではない

コロナ禍がもたらした社会活動のブロッキングによって,私たちは日頃の活動のいろんな側面をメタ的に見る機会を得た。

学校と学校教育も,前提や前例を踏襲し得ない事態によって,現場で混乱をきたしているだけでなく,家庭にとっては学校の役割を再認識する機会になったであろうし,先生方にとっては学校が児童生徒が通学してくれるという極当たり前のことで成立していた場なのだと,その有り難さを感じる機会となった。

緊急事態宣言は依然継続中であるけれども,地域の実情に応じて段階的な学校再開の目処をつけられるようになってきたことで,喧しいのは,お休みした分をどう取り戻すのかといった話だ。

年度末の終わりを待たずに始まってしまった臨時休校とその後の長い休校措置によって,新年度から始まるはずの事柄がストップした状態に陥り,その意味で学校教育活動の開始が後ろへとズレ続けている。

想定していたスケジュールに照らせば「遅れている」ことになるし,前代未聞の事態への対応が地域や学校ごとに異なることでの「格差」なるものが生まれているとも指摘されている。

事態を直観的に懸念した先生達がとった行動は,授業が行なえない代わりを至急用意することであり,たとえば,家庭で学習するための学習プリントを一生懸命作成・準備する作業だった。

また「学びを止めるな」を合言葉に様々な学習コンテンツを提供するサイトやサービスのリンクが集められ,経済産業省「#学びを止めない未来の教室」であるとか,文部科学省「子供の学び応援サイト」が立ち上がるといった動きに至って,現在も様々なコンテンツが紹介されている。

いまも学校再開時期をにらみながら,授業時数をどのように確保するのか,全国の先生達が学年暦とにらめっこしながら悩んでいるだろう。

この緊急事態時に出された様々な特例的措置が,ほぼすべて時限的な扱いで,通常措置の規定になんら変更がないことを考えれば,再開時期と授業実施がズレにズレるほど,学びは「遅れている」と見なされ,「格差が生じている」と言われることが明らか。

日本の学校関係者の習性として,外部批判を回避し,事無きを優先して,既定路線に従順であることを良しとするところからして,とにかく「挽回する」ことを第一使命にしてしまう様相は,理解できないわけではない。

けれども,この機にいま一度,教育とは何か,学習とは何かを考えてみる必要はないのだろうか。

想定外の事態に直面して,すっかり吹っ飛んでしまったかも知れないが,小学校においては今年度から「平成29年改訂 学習指導要領」にもとづく学校教育が本格開始するタイミングであった。

つまり,私たちは,どんな教育を目指そうとしていたのか,どんな学習を誘おうとしていたのか,そういう問いをもう一度この状況下で思い出して,考え直してみる必要がある。

平成29年改訂の学習指導要領は,教育内容から資質・能力へと力のベクトルを向けて転換を図ろうとしたものだ。

「コンテンツ(教育内容)からコンピテンシー(資質・能力)へ」に関しては,以前のブログ記事でも奈須先生の文献をもとに紹介していた。

教員は,教育内容を伝達する配達業という側面が確かにある。

どんなに知識がそこかしこに存在していたとしても,それを教育内容として包んで届ける行為が伴わなければ,容易には学びに結びつかない。とりわけ年齢が若ければ若いほど,そのような教育内容の配達は重要になる。

けれども,従来の知識伝達は,学習者があんぐりと口を開けて待っているかのような想定で,口元にア〜ンしてあげるところまでお膳立てすることが知識の伝達かのように捉えらてきた。

しかし,私たちが望んでいる学習者像は,そうやって口元にやって来る知識を美味しく頬張り存分に吸収するような存在だろうか。

私たちが望んでいるのは「能動的学習者」ではなかったか。

そのような学習者を育成するために,教員は単なるコンテンツ・デリバリーを続けているわけにはいかない。いつまでも口元にア〜ンしてあげるような仕事を続けるわけにはいかない。

自分自身でフャークやナイフ,箸や蓮華を駆使して,美味しい知識を食していくことも身につけていかなくてはならない。そのための能力が,言語能力や情報活用能力,問題発見と解決能力であるなら,それを育まなくてはならない。

資質・能力(コンピテンシー)への方向は,こういうことだったはずである。

平時なら傾聴に値するかも知れないが,この緊急時に言われてもねぇ…なるほど,そんな受け留めをされるのかも知れない。

平時にも見過ごされてきた格差が,この緊急事態にさらに拡大されてしまう問題を考えると,まずは従前からの知識学力を優先して考えるという方策は,確かに選択肢として重要に思う。

ただ,問題にすべき格差は,単に学習進度や習得の多少を基準に比較するようなものの話であろうか。

結局,それとて,緊急事態が緩和され,学校が以前に近く再開された時に,学校教育を縛っているものが何一つ変わらない現実に対して,単にお口をあんぐり開けて並ぼうとしているだけではないのか。

教職は,もはや単なるコンテンツ・デリバリー業ではない。どのような事態に対しても能動的に関わるコンピテンシーを養うこともセットに届けていかなくてはならない。そのようなコンテクスト・デザイナーとしての生業を模索していくべきだろう。

私たちを悩ませるコロナ禍が,やがて日常に埋没し始めた時,日本の学校教育の日常的メンタリティが従前と比べて劇的に変化しているとは,正直なところ予想できない。

混乱に乗じて増大していくのは,既得優位性であることが多い。それが誰にとって都合がよいのかが複雑になっている分,私たちもその恩恵にあずかれることがあるのだろうが,その裏側にはそうでない人たちもいる。

教職は,この機にどうあるべきなのか。コンテンツのみならずコンテクストをも縦横無尽に動かして考えていく必要があると思う。

教育の遠さと近さ

4月7日夜に緊急事態宣言が7都道府県に対し発出されてから間もなく1ヶ月。4月16日には対象が全国に広げられていました。

学校が休校措置に関わる混乱は,2月27日の新型コロナウイルス感染症対策本部の場で示された全国一斉臨時休校の要請に始まり,いま現在も続いています。

4月30日には,5月6日までとされた緊急事態宣言の延長の考えが示され,関係方面の調整が進行しているようです。

私自身も,この状況下で,遠隔教育を実施する事態に直面し,大学が以前より契約しているGoogleクラスルームという支援システムをすべての授業科目に採用する形で授業を開始しています。

考えなければならない課題は山積したままの見切り発車ではありますし,学生達にはGoogleクラスルームを使うこと以外,各授業で違うやり方に慣れてもらう面倒をかけることになりますが,今のところ課題配布中心型が多そうだということもあって,大きなトラブルは出ていません。

一部の授業では,動画教材やzoom等のテレカンファレンス・ツールを利用した双方向授業を試みたり,私のようにスライドと音声解説を組み合わせるパターンもあるといったわりと緩い雰囲気です。

問題は,こんな形で始まった”教授”や”学習”は持続するのか,学習の目標達成を評価する段取りをどうするのかといった所。通信教育や放送教育の世界にはそれなりのノウハウや経験があるのでしょうけれど,それを私たちが共有できていない現実もあって,あるいは車輪の再発明をやっているのかも知れません。

教育を歴史・文化的に捉え返せば,そもそも家族関係のもとで形成される「家庭」における養育や教育が原初であり,近しい者との関係形成を通して生活知を学んでいくのが,そのイメージであると思います。

教育を担う責任主体が,家庭から社会へと移行するのは,社会にとって教育された人の存在がいろいろな意味で重要となり,教育を家庭だけで担うことが難しくなってきたことが背景にあります。

地域の共同体の中に,学習者を集めて教授する場(学校)が生まれ,そこからずっと対面による教育が続いてきました。

一方,学習者が遠出可能な年齢にまで成長すれば,別の都市へと移動して教えを授かることもありました。実際,大学の歴史では,専門知識を学ぶために個人や集団が都市を移動することもあったといいます。

人の動きだけではありません。知識自体もまた,人々が住む地を繋いで移動していったとされています。かつて私立専門学校が講義登録者に向けて発行したとされる講義録が,遠隔教育の教科書の走りとされています。

斯様に教育は,人々が専門知識を得るために,学び手の物理的移動をいとわず,やがて印刷物等のメディアによって知識をより広範囲に移動させていくことで,その需要を満たそうとしました。

依然として,対面による知の鍛錬は,対話や問答を通した知の獲得形態として極めて強固に支持されています。一方で,遠隔教育あるいは通信教育は,あくまでも対面が叶わない場合の補助的な位置づけであり,スクーリングといった対面の機会を可能な限り確保することが求められています。

今回の新型コロナウェルス感染に関する事態によって,対面による授業や活動が制限され,学校の場が物理的な面会に支えられていたことをあらためて確認することとなりました。

一方で,面会を果たせない事態に対して、何ら備えをしていなかったこと。つまり、その場を去れば、その関係性をほぼ失うこと(それを私たちは卒業と言ってみたりするわけですが)になることもあらためて浮き彫りにしました。

直面してしまった事態に対し,ICTの活用が必要であるとの声も多く上がり,文部科学省からの事務連絡においても,児童生徒学生の学びを保証するためICTやオンライン授業などを従来の考え方に捉われず積極的に活用するよう何度も取り上げられるに至っています。

とはいえ,日本の学校教育関係者のほとんどがICT活用を真正面から取り組むことなく過ごしてきたため,物理的面会に最適化された近接的な距離感を,オンラインやネットワーク特有の距離感に置き換えることに苦労しています。

それは,対面という近距離が持っていた遠さに慣れきって,遠隔地を結ぶメディアがもたらす妙な接触感や拘束感に無防備であること。それゆえ,ネットの世界といったものを極力排除しようとしてきたことからもわかります。

ただ,学校で長く続いてきた排除の歴史の間に,この妙な近接感と拘束感をものにしてきたのが娯楽や消費の世界です。ネットの世界に教育的なものが限られているのに比して,商業的なものは膨大なのは,単純にネット等のメディアと対峙した時間の長さの違いです。

まもなく感染確認者数が下降傾向に入り,いずれは条件付きとはいえ学校の段階的な再開も実施されると思います。

今後どのような形になろうと,児童生徒学生の学びが前進することを優先的に考えることは変わりませんが,今回の事態で経験したことを,なるべく活かす形で学校教育が変わっていくことを願います。