Pages用の学会原稿テンプレート(JSET&JAEMS)

Apple社製ワープロアプリ「Pages」がバージョンアップしていました。

同時にタブレット端末「iPad」の新型も登場し,すべてのモデルがApple Pencilに対応するという基準性能の底上げが行なわれました。どちらかといえば,その廉価版iPadに話題が集中しています。

しかし,ここではPagesに注目したいと思います。

Pagesは,Apple社製マシン向けのワープロアプリで,MacとiPhoneとiPadで動作します。また,iCloudサービスとしても構築されているので,アプリで作成した文書をネット上に保存し、Webブラウザから開いて編集することもできます。

同じPagesといっても,Mac版iOS版iCloud版には動作する環境の制約上,違いがあります。

iPhoneとiPadで動作するiOS版は,単純な文書作成やテンプレートに則った編集作業に限れば十分な性能を持っていますが,とはいえ,パソコン用のMac版と比べると機能の制約がありました。

その最たる制約は「スタイル」の作成や更新ができないこと。

「スタイル」というのは,文字に対する装飾や書式情報などの設定をあらかじめ登録しておいて,選択すれば一発で見た目を設定変更できるという機能です。

従来までのiOS版では,登録されているスタイルを利用することはできましたが,新たな設定を登録することはiOS版でできませんでした。

しかし,ようやく今回のバージョンアップでこの機能が実装されました!

Pagesの新機能説明に「• 段落スタイルや文字スタイルの作成、編集ができます。」と書かれているのがそれです。

それ以外にもたくさんの機能追加がなされていますが,スタイルの作成と編集ができるようになって,ようやく一人前のワードプロセッサに近づいたところです。

個人的にはegword Universal 2のiOS版が登場してiPad上で縦書き日本語ワープロが使えるようになれば理想的な環境だと考えていますが,一般的な横書き文書作成であればPagesでも十分だと考えています。

というわけで,iPad上で完結するのを目指して学会用の原稿作成に使うテンプレートをPagesに移植してみました。

字体はもちろんヒラギノフォントなので,MSフォントにこだわる方はスルーして下さい。

 

日本教育工学会(JSET)論文&発表原稿テンプレート for Pages
http://www.con3.com/files/jset_templates_for_Pages.zip

日本教育メディア学会(JAEMS)論文&研究会論集原稿テンプレート for Pages
http://www.con3.com/files/jaems_templates_for_Pages.zip

 

改良案などあれば,Twitterなどでフィードバックいただければと思います。

企業の歴史と技術との距離

2018年3月7日はパナソニック社の創業100周年の日でした。

その日の新聞には都道府県毎に特別に用意された広告が掲載されたのをご覧になったかも知れません。

日本の家電ブランドとして世界に知られる「パナソニック」ですが,10年前まで国内向けには「ナショナル」というブランドが存在していて,昭和の時代に生まれた世代にとっては,ナショナルブランドの方に親しみを持つ人も少なくないはずです。もっと上の世代にはお馴染みだった「ナショナル坊や」の記念復活も,そうしたファンの存在を物語っています。

日本の家電メーカーはパナソニックだけではないし,百年企業の先輩は日本電気や東芝などたくさんあるわけで,今回の話題がことさら特別というわけではないのですが,とある調査によると今年100周年を迎える企業は全国で1760社もあるということで,それぞれの企業が積み重ねてきた歴史というものについて,考えてみるのも大事ではないかと思った次第です(関連記事)。

常々思っているのは,企業の皆さんに,社史や事業分野の歴史についてまとめた情報を公開維持して欲しいということ。たとえばデジタル教材として,Webサイトの形で公開してもらえれば広報的な役目もするだろうし,あるいは編纂した社史のPDFをダウンロード公開してくれてもいい。パナソニックのように100周年記念用に構築したサイトも,なるべく残し続けて欲しいのです。

同業他社同士が公開している歴史サイトがあれば,学校の調べ活動の時に,それらを比較しながらその分野のことを勉強することができるでしょうし,Wikipediaとのよい意味での緊張関係をつくることで,歴史への深い検討や理解が可能になるかも知れません。

余裕があるなら,教育分野への貢献として,初めから教材や教育向けサイトとして作成してくれることも有り難いことですが,特別な手間をかけずに自社の歴史と事業を社会に発信してもらえれば,それが学校教育にとっても有り難い教材となり得るのです。

日本の企業は,自社の歴史をWebサイト等で公開するのが当然。

そんな認識が広まると,よいなと思います。

もう一つ,日本の家電メーカーという点に絡めて思うことは「ものづくり」。

いまさら「ものづくり」なんてことを持ち出したら,「情報時代」と叫んでいるくせに「工業時代」に逆戻りがお望みか?と言われてしまいそうです。

ただ,日本は「ものづくり」の国だと言われてきたわりに,日本の学校教育におけるものづくり,たとえば技術教育は,片隅に追いやられ追い込まれ,平成29年・平成30年の学習指導要領においても扱いは大きくありません。

パナソニック社が100周年を目前とした2017年中から,次の100年に向けた姿勢をアピールしてきたキャンペーンサイトを眺めていると,家電が電気で駆動するものから情報で駆動するものへと進化しているのだなということを感じます。

それと同じように,学校における技術教育も,手工・製造の技術や電気・電子の技術に留まらず,情報・通信の技術まで手がけるように進化していくべきだったはずです。ハードウェアとソフトウェアの両輪に関する教育も,そうした順当な進化のもとで具体化されたはずです。

ところが,1962年に中学校の技術科が実施されてから数えれば55年間。途中から家庭科と組まされて単独教科ではなくなり,しかも家庭科が小中高の連続性を持っている一方で,技術科は中学校のみ(小学校にも高等学校にも技術科がない)。この異常な組み立てを放ったらかしたまま,今年,プログラミング教育がフォーカスされている。

このことに違和感を抱かない教育関係者はいないはずですが,問題が大き過ぎて,みんな諦めてしまうのです。あるいは,カリキュラム・マネジメントを積極的に推すことで,瓢箪から駒を期待しているのかも知れません。

こんなにも技術の恩恵を受けて発展してきた国はないはずなのに,技術を教育するということを真剣に扱ってこなかったツケが,今後もいろんな形で現れてくると思います。

『情報時代の学校をデザインする』

新しい本が出ました。

情報時代の学校をデザインする 学習者中心の教育に変える6つのアイデア』(北大路書房2018)

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今回は,稲垣忠,中嶌康二,野田啓子,細井洋実というメンバーに加えていただき,第5章を中心に担当しました。稲垣先生との翻訳仕事は3回目。といっても日の目を見たのは『デジタル社会の学びのかたち 教育とテクノロジの再考』という一冊ですが,北大路書房さんのご尽力をいただき今回の翻訳本を出版することができました。

「学習者中心の学び」を実現する学校のことを書いた本です。

このように書くと皆さんは「児童中心主義」という言葉を思い出し,それがうまくいった話は聞いてないと,かつての勉学成果を発揮されるかも知れません。

確かに児童中心主義は,かつて進歩主義的教育の主要な潮流であり,統制よりも自由を追い求めてみたものの,結果的に個人的な発達に任せただけでは現実に対応しきれず,運動として衰退しました。

そういう歴史を学んだことのある先生方は,「学習者中心」という言葉にも同じ匂いを感じ,自らの職業的アイデンティティを誇示する思いも伴って,児童生徒任せの学びと距離を取らざるを得ないのだろうと思います。少なくとも,教科書の単元を一通り消化しなければならない教育の営みを,不確定な要素で乱されることには抵抗が強いはずです。

でも,そうも言ってられませんね,というのがこの本になります。

この本が掲げる「学習者中心」は,児童生徒の欲求赴くままにという意ではありません。

「情報時代」と呼ぶ世界で,教育というものは,そもそも初めから学習者が「中心にある」形や仕組みで成り立っているのだという意味です。

私たちは「工業時代」と呼ぶ世界を生きてきた人がほとんどですから,工業時代の教育の形や仕組み(たとえば工場モデル)から出発して物事を考えるしかできないので,学習者中心というと,児童生徒を主人公っぽくして何かを学ばせるという発想でイメージしがちです。つまり「工業時代」の目線から「情報時代」の話を読もうとしています。

しかし,この本の話は徹底的に「情報時代」の教育を語っているのです。

「情報時代」の教育を純粋に思い描きたければ,「工業時代」の教育目線はなるべく排す必要があります。こんなことできないよぉ,と思ったとしたら頭が「工業時代」だからかも知れないからです。

そうはいっても現実的には「工業時代」の教育を営んでいる学校がほとんどですから,そこから「情報時代」の教育へ変えるためにはどうしたらよいだろうか,ということが大きく6つほど提案されているというわけです。

本の中では「パラダイム転換」という言葉が使われていますが,それはもう「価値観の転倒」さえ覚悟してもらわなければならないのだということを意味しています。

「情報時代」の教育の実行には,必然的にテクノロジの力を借りなければなりません。

いやいや,そもそも情報時代とはテクノロジの時代なのだから,教育にテクノロジが利活用されるのは当たり前なのだというくらいの振り切り方が必要です。

だからといって,四六時中コンピュータやテクノロジを前にして教育が行なわれるなんて未来イメージを描くとすれば,それは漫画か映画の見過ぎです。

テクノロジはすでに生活や社会の中に溶け込んでいるわけですし,学びや探求心が加速する場では,自然や外界との接触意欲や機会も豊かなものになっていくと考えるのが妥当でしょう。

そうした活動を支援したり,活発化させるのがテクノロジの貢献する部分でもあるはずなのです。

というわけで,肝心の核心部分は何も解説していませんが,6つのアイデアとは次の通り。

コア・アイデア1:到達ベースのシステム
コア・アイデア2:学習者中心の指導
コア・アイデア3:広がりのあるカリキュラム
コア・アイデア4:新たな役割
コア・アイデア5:調和ある人格を育む学校文化
コア・アイデア6:組織構造とインセンティブ

さて,これらがさらにどんな要素で構成されているのかは,本をお読みいただければと思います。

翻訳者メッセージでは担当者として「第5章こそ読んでくれ」みたいな負け惜しみを書きましたが,本書の大事な部分は第1章から第4章です。たぶん,日本の(根深いほど工業時代的な)学校制度の中では,かなり読むのが大変だと思います。

とはいえ,平成29年と平成30年に出た学習指導要領は,「カリキュラム・マネジメント」という言葉のもとで,混みあってきた学習内容をどのように教育するか計画することを学校に任せてきました。「学びの地図」に記された箇所すべてを時間内に回りきることは,これから年次が進行するほど無理が増します。

無理がたたって学校関係者の皆さんの疲弊や崩壊が行き着くところまで行く前に,この本をきっかけに自分たちで「パラダイム転換」してみてはいかがでしょうか。

JSET「プログラミング教育」リベンジシンポジウムのこと

2018年3月3日に東京・創価大学で日本教育メディア学会(JAEMS)と日本教育工学会(JSET)の研究会がありました。今回はJSET側の研究会テーマが「プログラミング教育・LA(ラーニングアナリティクス)」で多数の発表や関連シンポジウムがあったので参加してきました。

各発表のプログラミングに対する斬り口は様々ですが,いまは多様性を充実させる時期かも知れません。率直な感想は「プログラミング」を前提とした大車輪は回り始めて止まらない感じがしています。個人的には「プログラム」あるいは「ソフトウェア」あたりから入るべきだったのではないかと思いますが。

さて,2017年9月17日の日本教育工学会全国大会で開催が予定されていながら,台風の影響のため中止されたシンポジウム「プログラミング的思考力をどのように捉え,いかに育むか?」が,今回の研究会を機にリベンジ開催されることになりました。

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登壇メンバーは昨秋に予定されていたメンバーに1人加えられた5人となりました。

阿部和広さんは,Scratchの日本の伝道師とも言うべき方です。様々なワークショップや活動の場で接してきた子供たちの様子を踏まえて,自由に試行錯誤できる環境を与えられれば子供たちは自らプログラミングを「楽しみ」ながらその世界を会得していくことを指摘されました。

平井聡一郎さんは,学校教師の経験と教育委員会でICT環境整備などを主導してきた経験を踏まえて,いまは全国を飛び回りプログラミング体験・学習の講演をなされています。今回も移行期間で教師が現実的に始められる取り組み段階を紹介されていました。

高橋純さんは,東京学芸大学の教員で,国の有識者会議やワーキンググループの委員を務めています。今回の小学校におけるプログラミング体験に関する位置付けを一部の「必修化」という誤解を正しながら解説し,学習指導要領や教員養成カリキュラムに関連事項を入れ込むことがどれだけ大変な事だったかを紹介されました。3月10日にJSET産学協同セミナーがあるため,おそらくそこでも似た話を聞けるだろうと思います。

御園真史さんは,島根大学の教員で,数学教育に携わられています。数学の条件式やシグマの数列和などにもすでにアルゴリズム的・プログラミング的な処理の仕方が含まれているという話から始まり,しかしながら,教科の中でのプログラミングが教科の目的を達成するものとして意味を持つためには,教科教育における研究とそのための教師育成が必要であると指摘されました。

久保田義彦さんは,宇都宮大学の教員で,理科教育を専門にされています。算数と同様にプログラミングが例示された理科の立場からお話をされるにあたって、関わられている雑誌『理科の教育』の特集の紹介と,ご自身が講演などでわかりやすく示すための「調理の最適化」というお話でコンピュテーショナルシンキングの思考活動を説明されました。

各登壇者15分程度の発表後,フロアに対して横並びで質疑応答に移りました。

私はてっきり,司会者がテキパキと進行を采配しながら展開していくと思ったのですが,特別そういった形式はとらずに,登壇者とフロアとの緩やかなやりとりで進みました。

ふわぁっとフロアへ質問の振りが行なわれましたが,多くの方が様子見姿勢だったので,私から高橋先生へ質問をしました。

高橋純先生は発表で,今回の「プログラミング」は,総理大臣や一部の会議内での発言が「必修化」という言葉を使っているため,まるでプログラミングという授業が必修化されたように受け止められているけれども,現実には必修化という文言は使われていないし,学習指導要領の中で「プログラミング」は配慮事項として加えられたに過ぎないと冷静に解説されました。

また,おそらくそれは,プログラミング等をもっと積極的にやるべきと考えている人々にとっては,100求めたいところの1でしかないと映るかも知れないが,0から1になっただけでも大変なことであり,次(10年後)の学習指導要領でそれが少しでも増えるために,いまは盛り込めた「1」について大事に受け止めてしっかり成果を出していくことが肝要であると提言されました。

その解説はもっともで,大変大事な指摘なので,もっと広く周知されて,理解されるべきと思いました。

そして,その解説の際に,いかにプログラミング等の文言をあちこちに入れ込むことについて周囲からの抵抗があって,いま残せたものさえ危うかったか,敵の多さや入れ込むのに孤軍奮闘した苦労を多少冗談めかす形で語りつつ,参考にするものがあるとすれば英語教育の活動ではないか,それに比べ情報関係は20年遅れたとも言われたのです。

それで,フロアからの質問がすぐには出そうになかったので,「英語教育に比べ遅れた20年の原因について,先生の見立ては?」という質問を投げかけました。

シンプルな返答は「保護者や一般の人々への情報のイメージが英語に比べて良くなかった」というもの。これは情報のイメージがネガティブというよりは,英語の方が役に立つイメージが強かったという意味だと思います。高橋先生は「英語の教材等が豊富に用意され・充実したこともある」といったことも付け加えました。

とにかく,今回の学習指導要領で書き込まれた配慮事項が,実際の教科書でどのように書き込まれるかを注視し,丁寧に実践する事例と成果を積み上げる必要性があることを繰り返し説かれました。

その質疑の後は,現場の先生や教育委員会,大学で教員養成に関わる方からの質問に対して,登壇者が順にコメントしていく形が続き,シンポジウムの全体的な雰囲気はわりとふんわりとしたまま,時間となって終わりました。

刺激的なディスカッションが好きな私としては,テキパキとした司会進行のない今回のシンポジウムは,ちょっと物足りなかったというか,登壇者同士の対話や鼎談部分が薄かったかなぁと感じました。

阿部先生や平井先生は,どちらかといえば積極的にプログラミングに関わることをご自身の活動の中で推進している立場。高橋先生は,国の動きの中で起こっている現実を引き受けている立場。御園先生と久保田先生は教科教育における受け止めの中で語られる立場。この立場の違いをシンポジウムとしてもう少し面白く調理することができたはずなのですが,残念ながら,それぞれの味を引き出すというところには至らなかったのではないかと思います。

そのため,現実を引き受けている高橋先生の話のトーンがシンポジウム全体を染めてしまい,現実の中でどうするかを語り合う,探り合うといった,微妙な雰囲気に終始してしまいました。

当たり前のことですが,学習指導要領が告示されてしまった後なので,夢や理想のようなものを語るフェーズではありません。プログラミング体験やプログラミング学習に関して,その前提を問うという原理的あるいは理念的な議論をする部分については私自身積極的なのですが,学習指導要領に関わる部分について語る場合,あまり議論として盛り上がるものはないと考えています。

なので,100を求めちゃいけないよ,0が1になったことを大事にしなきゃいけないよ話は,本当のことではありますが,議論としてはあまり盛り上がらないし,微妙な感じになりがちです。さらに微妙さがあるとすれば,国の会議や審議会の場における様々な抵抗勢力話や孤軍奮闘話をあとから聞かされるという体験かも知れません。

もし,抵抗勢力や孤軍奮闘の苦しさがあるなら,その真っ最中に,多くの学会員に協力を求めたり,ロビー活動を要請するといった関係者の連携を模索してくれるべきなのですが,そういった国の会議や審議会の内部情報はほとんどクローズドになっているためか,結局一部の人たちが抱え込んで苦労しているのです。

そんな苦労を「大変だった…」とか「誤解が多くて…」とか「敵が多くて…」とか「猛抵抗にあって…」とか,場を盛り上げるリップサービスとして口にされているのだとは思いますが,それを聞かされる側は,手を貸さなかったかのような微妙な気分にもなってしまいます。

学会のシンポジウムには,いろいろ見せ方があるとは思いますが,今回のような旬なテーマの場合は,一種のプロレスみたいなものとして見せてもいいんじゃないかと思っています。

そのためには,司会者あるいはコーディネーターがある程度は場を操って,様々な立場や意見を交錯させて化学反応を引き起こすことが必要です。

今回のシンポジウムはその見せ方を取らなかったというだけですが,それぞれの登壇者の主張が平行したままフロアに投げかけられて終わったため,それも微妙な感じを残したのかも知れません。

現実路線は構わないのですが,議論に巻き込んで味方を増やすということをしないと,あと10年経っても周囲から抵抗や攻撃を受ける弱い立場が変わらないんじゃないか,そう思ったシンポジウムでした。