【告知】教育情報化の歴史ワークショップ-私的履歴から史的理解へ-

 2013年9月20日から秋田大学で日本教育工学会第29回大会が開催されます。

 学会発表などの本番は21日からですが,前日の20日には秋田大学附属小学校の授業公開と,学会ワークショップがあります。

 そして私もそこで「教育情報化の歴史ワークショップ」なるもの主催します。

 歴史ワークショップなんて堅苦しいタイトルが付いていますが、昔話に花を咲かせましょうという会です。

 一応,話が盛り上がるために,皆さんの記憶や関心を呼び起こすためのワークを考え中ですが,自分が関わってきたこと,個人的に好きだったパソコンやソフトや教育実践のことなど,皆さんの履歴に関する「記憶」を持ち寄ってもらい語らっていただくのが基本です。

 そのため,私が日々作成し続けている秘伝(?)の教育情報化年表をご覧いただく機会になると思います。まだ未完成な部分が多くて公開には至りませんが、これはこの分野の財産だと思うので,皆さんの経験に学びながら完成させ共有したいなと思っています。

 最近のデジタル云々の議論は,いつか来た道とそっくりであることも多いし,様々な過去の積み重ねを知れば誤解も氷解し,より深い議論に進められるかも知れません。

 教育の情報化の過去・現在・未来に関心がある皆様と,一緒にいろいろ学べたらと思います。ぜひ覗いてみてください。

 ワークショップは大会会期の前日扱いなので、学会参加費の対象外です(よね?)。お金のことは気にせず,これだけ参加しても怒られません。^_^

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[ワークショップ説明文]

 「教育の情報化」は学校環境のICT対応の通じて情報教育や教科等の指導,校務の効率化を目指すものとして取り組まれてきました。 初等中等段階においては,コンピュータ教育元年と呼ばれた1985年から現在まで様々な試みが繰り返されてきましたが,必ずしも学校の日常に組み入れられたとは言い難い状態です。

 このような事態は,ICTを活用している社会と学校の乖離が増すばかりでなく,大学教育の高度化や教育工学研究の前進にも良い影響を与えません。

 その時々の機器や技術に踊らされないためには,歴史的な積み重ねの共有と議論が不可欠ですが,教育の情報化は多様な試みが散在しながら進行したため,その記録は,関係者の履歴としては残されていますが,歴史として蓄積されていないのが実情です。

 本ワークショップは,散逸しつつある教育情報化の記録や記憶を集める手がかりとして,参加者の私的履歴を持ち寄ってもらうことから始め,年表との比較作業や参加者同士の語らいを通して,教育情報化の史的理解へと繋がる契機をつくることが目的です。

デジタル・ICT対応の推進/慎重/反対に何を思う

 私は大学教員を生業にしています。

 もちろん研究者でもあります。論文をバシバシ書くタイプではない自称熟考派ですので,あまりお役には立っていませんが,学術界の片隅でお仕事をしています。

 いまは「教育情報化史」に関心を持っています。

 もともとはカリキュラム研究の立場から教育実践や教育方法を考えることに関心がありました。やがて情報通信技術の社会への浸透を意識するようになり,教育と情報技術について考えることが多くなりました。

 そして,その歴史への興味関心が強まって今に至ります。

 デジタル教科書界隈がまた騒がしくなってきました。

 佐賀県のICT機器導入(県立高校生全員タブレット端末購入)のニュースも同時に流れて,話題はごちゃまぜになりながら関心を呼んでいます。

 推進派,慎重派,反対派ともとれる発言がTwitterやブログなどで発信され,議論が展開しているようにも見えます。

 しかし,残念ながら私には議論が相変わらず混乱しているように思えます。

 私はこういうものを交通整理したいと思う立場です。

 私自身はデジタル教科書やICT機器の導入に対して「慎重派」だと思います。

 正確に記せば「条件付き推進派」なのでしょう。そういう意味で「懸念派」や「反対派」に立つ人々からすれば敵対関係にあるかも知れません。それに条件付きなどとするあたりがいかにも学者的な逃げ口上と映りそうです。

 しかし,幼稚園・保育所,小学校(低中高),中学校,高等学校,中等教育学校,特別支援学校,大学・短期大学・高等専門学校,大学院など,学校種を考えるだけでも様々な条件が存在します。

 「教育の情報化」という言葉が指す範囲には,大きく分けても「情報活用能力の育成」「学びにおけるICT活用」「校務の情報化」といった領域があり,目的も効果も様々です。

 学校教育経費は限られており,ましてや割かれる歳出が減少傾向にある中では,教育と学習のためのフリーハンドは失われつつあるといえます。つまり,それぞれの教育学習活動にどんなリソースを与えて,どのように支えるのか考えることは,方略をもって選択と集中がなされなければならなくなっているということです。

 私が半ば推進派に属するのは,教育と学習に振り向けられるリソースを豊かにしたいからです。またフリーハンドが増えれば,教育と学習に試行錯誤が許されることになります。

 ここでいう「リソース」とは,予算はもちろん教材や整備などの学習環境も含まれますし,学校に対する社会的信頼といった無形のものも含まれます。また「フリーハンド」とは学校教育における自由度や自律性であり,旧来の規則や制限を見直して緩和するか,新たな規則をつくることを含んでいます。

 そうしたリソースとフリーハンドの獲得には,丁寧な議論と設計が必要であり,新たに構築したものを継続的に見直していく必要性もあります。これが「条件付き推進派」という私の立場です。

 丁寧さを求める立場からすると,大胆さを求める「推進派」は好きになれません。だから私は中村伊知哉氏があんまり好きではありません。

 2010年初頭に彼の人がデジタル教科書への関わりを表沙汰にして活躍し始めてから,すれ違う機会はいくらもありましたが,直接話しかける気持ちが湧きませんでした。

 そもそも中村氏は教育研究者ではありません。教育に対する関心が人一倍強く,MITメディアラボとの関わりや100ドルパソコンのエピソードなど,氏なりに教育に関わってきたことは知っています。

 それでもたぶん関心が異なりすぎて,話がかみ合わないだろうと思われたのです。それにお互い担っている役割が違います。中村氏は「旗振り役」となったのであり,私は「学校現場支援」に立とうとする人間です。仕事ぶりに文句は言えても,互いの立場の必要性を否定しようもありません。

 だから,話しかけようという気分が湧かず,それゆえ好きとも嫌いとも言えない中途半端な認識のままに済ませています。

 あとは,少しでも混乱する議論を整理して理解し,この時代のことを後世にも知ってもらえるような仕事をするのみです。私が教育情報化の歴史に関心を強めているのは,そういう作業のためでもあります。

 「反対派」の懸念や否定意見について聞くべきものが多いと思います。

 しかし,反対意見にも丁寧さに欠けるものは少なくありません。

 人の直感や感情は危機や危険を回避する点においてあながち間違っていないと私自身も思います。しかし,問題を敷延してみた時,見えていなかった別の問題が背後に隠れていることもあります。

 危機や危険の回避だけでは解決し得ない問題を含めて,どのように考え対応していくべきなのか。こちらも丁寧な議論が必要だと思うのです。

 そういう意味で『ほんとうにいいの?デジタル教科書』という本が嫌いです。そういう本を書いた新井紀子氏は好きではありません。

 あの本はデジタル教科書の問題点を簡潔にまとめたという評価にはなっていますし,確かに問題点となり得ることを総花的に含んでいるかも知れませんが,冷静平等なまなざしで書いたとする前口上に反して,偏った観方でまとめられています。

 新井氏がそもそも反対派あるいは否定派であることは良いことだと思います。そういう意見を表明する意義があります。

 けれども,それだけでは不完全なのです。

 あの本の結論は,結果的に自己矛盾に陥るものでした。

 規格品であるコンピュータを活用する教師は信じないが,愛情を持った規格品ではない教師とその育成には期待を寄せる。様々な問題点を指摘した結末をそのように飾った本は,どうにも好きになれません。

 私は,規格品であるコンピュータを子どもたちに愛情を持って活用できる規格品でない先生は在り得ると思うし,その育成が大事だと思います。

 その観点からこの本を読み返すと,筆者がいかに問題点をあげつらうために一生懸命書かざるを得なかったか,気の毒な状況で生まれた本であることも見えてきます。

(追記 20130908)  デジタル教科書をめぐる議論のもっとも不毛な点は,どの立場も現在の学校や教師の実態に即したり,代表していない点にあります。発言者も大学関係者や業界関係者あるいは一般の方たちばかりです。

 発言によっては「教員意識調査」などの結果を引き合いに出すことがあります。

 たとえば中央教育研究所による「教師と児童・生徒のデジタル教科書に関する調査」の結果は,報告書冒頭で次のように要約されています。

「デジタル教科書とこれまでの紙の教科書の併用を望む教師」が小学校では71.8%、中学校では60.2.%と最も高く、「紙の教科書を廃止してデジタル教科書のみを望む教師」は小・中とも非常に少ないです(4%弱)。「デジタル教科書不要」という考え方は小学校では24.8%、中学校では34.4%です。

 これをもとに,反対派は,6〜7割の先生がデジタルと紙の併用を求めているのだと引用することも出来ます。推進派は,デジタル不要と考えているのは3割程度に過ぎないと抜粋することも出来るでしょう。どちらも現場の声に立脚して主張できてしまいます。

 発言者は学校現場から遠い人たちばかりで,アンケート調査結果はそれぞれの主張に合うように用いられるのでは,現実の文脈に即した議論というよりも可能性の範疇で議論が展開してしまいがちです。

 私自身は,教員調査などのアンケート結果のほとんどが,学校の教師の皆さんの慎重さを示した結果になっていると捉えています。

 そもそも日本の学校は,多くの人々が解体や再構築の必要性を望むほど硬直化した官僚体制になっています。従来の日本の公教育とは,そのように統制された世界観のもとで構築されてきました。

 と同時に教師の教授学習文化としては,教科教育の伝統が強く継承され続けてきました。日本的な教材研究や授業研究の文化は,世界的にも注目されているほどです。

 そのような文化や文脈の中で,デジタル教科書やICT機器の活用に対して,無批判に使おうとする先生はごく限られた人たちであると考える方が自然です。むしろ教師の方が懸念を大きく抱いていて,デジタル教科書やICTの活用を抑制あるいは制御したいと考えているほどです。

 そのような学校現場の空気もまた私個人の理解でしかないと言われるかも知れませんが,私自身が小中高校の現場に接する中で感じ取るのは,そのような傾向なのです。

 反対派や否定派の人々の意見は,こうした学校現場の現状や考えを代理しているというよりも,そことは別個に考えて捻出した懸念に基づいている点で,説得力に欠けます。

 また推進派の人々は,現場の懸念を丁寧に拾い上げるまでには至っていません。大きな流れや機運を盛り上げることが優先されると,そうした部分は後手に回るか,他の人たちに任せるかといった感じになるからです。

 今回のデジタル教科書の議論は,いわばいつもの空中戦といった感が強く。誰がだれに向けて何を主張し,どう在りたいのかが発言者自身も不明瞭なまま,懸念や主張表明が続いているように私には見えてしまいます。

 過去の出来事を掘り起こし,現在の出来事を整理しつつ,未来を見通すことに役立たせるのが私の仕事です。過去の掘り起こしが意外と大変なので時間がかかっていますが,その成果についてはこれから徐々に世に問うていきたいと思っています。

 デジタル教科書やICT機器導入で起こっている様々な出来事には,それぞれ奥深いものがあり,それらは繋がっているのだということを,私自身まだまだ新たに発見して勉強しているところです。

次世代デジタル教科書共通プラットフォーム開発コンソーシアム「CoNETS」

 2013年9月5日付で次世代デジタル教科書共通プラットフォーム開発コンソーシアム「CoNETS」(コネッツ)が発足したようです。

 ニュース報道やコンソーシアムのお知らせによると,教科書会社12社と日立ソリューションズが参画し,これまで各教科書会社の固有製品としてバラバラに開発してきたデジタル教科書を共通に開発するためのプラットフォームづくりで協業するということのようです。

 これに関しては業界が足並みを揃えるというニュースとして伝わり,好意的な反応もあれば,いままでどうして共通化していなかったのかという素朴な疑問や,ニュース報道で取り上げられた従来のデジタル教科書の使い難さに非難の声が上がるなど,注目を集めることによる様々な反応が出てきているようです。

 教科書というのは,国が定めた学習指導要領に準拠しているかどうかをチェックする検定に合格した教育用図書であり,教科書会社は教材商品として個々のノウハウのもと教科書を編集して検定を通し,学校に採用してもらうという努力をしてきました。

 デジタル教科書は,まだ海のものとも山のものとも分からない状況ですが,指導者用のデジタル教科書についてはICT活用が奨励されてきた流れもあって,5年ほど前から検定教科書とは別に学校向け商品として開発販売が始まったわけです。

 そのため,各社でデジタル教科書の機能も操作性も違っており,皆さんが報道でご覧になったように合わせて使うと大変な事態を招いていたというわけです。

 しかし,デジタル教科書自体の導入がそれほど進んでいたわけでもなく,まして各教科(各社)のデジタル教科書を揃えて導入することも従来までは事例が少なかったため,そのような組み合わせて使う苦労の問題は水面下のものだったのです。

 そして,いよいよICT機器やタブレット機器の学校への導入が賑やかになってきた今日になって,こうした問題に本格的に取り組むタイミングとなったことがコンソーシアムの発足などに繋がったのだと思います。

 実際,文部科学省でもデジタル教科書の標準化に関して取り組みが進行中です。そういうものにも繋がっているわけです。

 さて,ところで,教科書会社12社が団結して…というニュースに,一般の人々は「それはすごい」と思われたかも知れません。今回参画したのは…

 大日本図書株式会社  実教出版株式会社  開隆堂出版株式会社  株式会社三省堂  株式会社教育芸術社  光村図書出版株式会社  株式会社帝国書院  株式会社大修館書店  株式会社新興出版社啓林館  株式会社山川出版社  数研出版株式会社  日本文教出版株式会社  日立ソリューションズ  以上,教科書会社12社と開発企業1社です。

 しかし,そもそも日本には教科書会社というのはいくつあるのでしょうか。  文部科学省の教科書目録(平成25年)を参照すると,日本で教科書を発行しているのは50者となります(個人も含むので「者」となります)。

 50者の中の12社と考えると多いような少ないようなですが,ほとんどの発行者は特定学校種や特定科目(高校の選択科目など)の教科書を発行している感じですから,主要プレーヤーとなると限られてきます。

 たとえば50者のうち小学校・中学校・高校の教科書を発行しているのは…

 東京書籍  大日本図書☆  開隆堂出版☆  三省堂☆  教育出版  教育芸術☆  光村図書出版☆  帝国書院☆  啓林館☆  日本文教出版☆

 です。そして星印が今回のCoNETSに参画している会社となります。主要プレーヤーのかなりが参画しているけれど,東京書籍と教育出版が欠けているという結果。

 業界的にはいろいろ深読み出来そうな内容ですが,多様性もまた大事なことですので,EPUB3をベースに切磋琢磨していただければと思います。

 今回,共通プラットフォームという言葉が使われているので,それ自体が日本だけの独自規格になるんじゃないかとご心配されている方もいます。

 実際には,EPUB3が教科書コンテンツのベース規格になりますので,このコンソーシアムで開発したデジタル教科書であっても,中身のEPUB3部分を取り出して他社のビューアやプラットフォームソフトで使用することが原理的には可能です。

 コンテンツ部分とビューア部分の標準化が課題とされていますが,コンテンツ部分はEPUB3で統一しつつ,ビューア部分で各社が相乗りするというのが今回の動きなのです。

NHK for School(NHK学校放送Webサイト)動画がiOS対応

 NHK学校放送は長い歴史を持つ教育放送です。

 また,教育番組やコンテンツを対象とした世界コンクール「日本賞」の存在は,この国が教育放送に対して常に努力を怠らなかったことの証であり,事実,NHKの学校放送は時代時代に沿いながらも教育番組としての矜持を守り続けてきました。

 もちろん,昨今の番組センスに違和感を感じる人々も少なくないかも知れません。過去の教育番組と比べると,つくりが甘いのではないか。演出が飛びすぎてないか。実際には,教育番組らしさという伝統を継承しつつも,テレビ番組として同時代的なものからの影響も無視出来ない中で,試行錯誤が続いています。

 ところで,昨今では放送中の教育番組については,放送済み回をWebサイト上でも公開しています。それが「NHK for School」というサイトです。

 ここには各教育番組のWebページがあり,放送済みの動画だけでなく,先生達の授業づくりに参考となる資料や授業で使用出来る補助教材,デジタルコンテンツが用意されています。これらは登録する必要もなく無料で利用出来ます。

 パソコンからアクセスすれば,教育番組を放送時間に関係なく視聴することが出来ますし,用意された教材や素材を提示することも出来るわけです。

 実は,従来までのNHK for SchoolはFlash技術をメインにサイトを構築してきたため,パソコンからの閲覧には問題ありませんでしたが,タブレット端末やスマートフォンから閲覧するといくつか表示出来ない箇所がありました。

 動画もタブレット端末から再生出来ませんでした。

 せっかく教室に持ち込みやすいタブレット端末が登場したにも関わらず,教育番組の動画再生が出来なかったことは,学校関係者にとっては大きな落胆でしたし,学校放送関係者にとっては大きな課題でありました。

 昨年あたりだったでしょうか,NHK for Schoolも少しずつHTML5対応を強化し始めていました。トップページの番組表も,当初はFlash技術だったためiPadでは見ることも出来ませんでしたが,HTML5技術に切り替えて見られるようになりました。

 その後,いくつかの教材コンテンツをHTML5技術で試作するなど,可能性の模索は現在も続いています。

 懸案の動画のiPad対応ですが,これはすぐに対応するということが難しく,要望や技術的な状況を見ながら対応のタイミングを待っていたようです。

 技術的には2011年後半ごろからFlash動画を送信するサーバーシステムが,iPad向け形式に対応する改良が加えられ始めたので,そうした新しいサーバーにシステムを買い替えて作業することで実現する目処が立っていました。

 というわけで,2013年8月下旬頃から教育番組のiPadとiPhone向け動画配信が実現したようです。インターネット接続さえ確保出来れば,iPadなどで手軽に教育番組を再生出来るようになります。

 NHK for Schoolのメールマガジンでも「NHK for Schoolの動画、iPhoneやiPadでも再生可能に」というお知らせが掲載され正式発表となりました。

 そろそろ新しいiPadも発売される時期です。先生方が教室の授業で利用することを見越して新規購入する例も増えるのではないでしょうか。

 学校にインターネット接続がない場合は,携帯電話会社との回線契約を合わせて購入することでLTE接続による動画視聴を可能にする方法もありそうですね。

 残念ながら,今回の変更で対応しているのはiPadとiPhoneなどのiOS機器のみ。Androidタブレットも対応出来るのではないかと思ったのですが,現時点では再生出来ないというメッセージが出て使うことが出来ません。

 さてと,iPadで「さんすう刑事」を観よっと。 ^_^

『ディジタルネイティヴのための近未来教室 −パートナー方式の教授法−』

 翻訳書をご恵投いただきました。「デジタル・ネイティブ」という言葉の生みの親でも知られるマーク・プレンスキー氏の”Teaching Digital Natives: Partnering for Real Learning“という本の邦訳『ディジタルネイティヴのための近未来教室 −パートナー方式の教授法−』です。

 タイミングが悪くて,さっそく書店で購入してしまったあとで,職場に戻ったら届いていました。ははは…。いずれにしてもありがとうございました。

 翻訳者グループである「情報リテラシー教育プログラムプロジェクト」を存じ上げていなかったので,書店でお名前を確認しても,残念ながらお名前を知っている方がいない。

 調べてみると東北大学の大学院情報科学研究科における「情報リテラシー教育専門職養成プログラム」の関係者の方々だそうです(現在は「情報リテラシー教育プログラム」に変更)。

 情報リテラシー教育の現場にとっても,新しい教育方法を導入することが喫緊の課題という問題意識があったようで,そこで翻訳者グループが出会ったのがこの本ということのようです。

 ところで「パートナー方式」と訳された「partnering」とは何でしょうか。まったく新しい教授方法でしょうか。

 パートナー方式が意図しているパートナーとは「生徒と教師が対等な関係でバディを組む」ことです。本書ではバディという言葉は使ってませんが,お互いの存在を尊重し,それぞれの役割で力を発揮できるように高めあう関係だと考えてよさそうです。

 そういう関係にある生徒と教師が展開する互恵的な学習と指導が「パートナー方式」の教授法という事になります。

 実際のところ,プレンスキー自身も著書の中で,従来の様々な教授方法と多くの部分が重なると記述しています。たとえば「生徒中心学習」「問題解決学習」「プロジェクト学習」「事例体験学習」「探究学習」などの名前を挙げているのです。

 つまり,本書はこれまで様々提案されてきた指導方法や教授方法を「partnering」という考え方で再整理し,まとめたものといえます。  同様に,教育おける様々な「不易流行」の要素を「動詞スキル(不易)」「名詞ツール(流行)」として提示しているといった感じになっています。

 ちなみに「動詞スキル」とは行動目標や学習場面のような生徒が達成すべきスキルのことで,「名詞ツール」とはそのために使用する道具のことです。

 用語が独特なため邦訳語の選択はかなり苦労されたようですが,プレンスキーがこの本で企図したことは大変シンプルで,積もり積もったリソースを先生達に見通しやすいように多くのTipsとともに提示し直したということです。

 プレンスキーの考えとしては,「partnering」も教師の動詞スキルとして捉えたかったのであり,日本語にした時の「パートナー方式」では教授法における名詞ツール的な印象が漂ってしまう点が難しいところです。

 (追記:つまり,パートナー方式というのは流行り廃りするものではなく,教師の本質的な技能として根ざしているものだと考えたいわけです。)

 「Real Learning」という原題の言葉にあるように,現実と直截的な学習がこれからのデジタルネイティブ達の教育にとって重要であると考えているわけですが,それは同時に,訳者の解説にもあるように,デジタル移民にとっても従来までの様々な経験と責任の今日的な見直しを迫る学習も含んでいるのだと思います。

 多少手強いですが,なかなか興味深い本です。