現在の記録と発信が未来の情報

私が学際情報学という学問を学んでいたとき,アーカイブについて勉強する機会がありました。

資料の保存と公開,そのための管理。

それがアーカイブというものの漠然とした説明になりますが,私はその奥深さの一端を垣間見て,専門家には程遠いとしても,その行為や活動の重要性を尊重しなければならないと思ったのでした。

いま,りん研究室が取り組んでいるのは,教育と情報の歴史です。

歴史資料の蒐集,整理,分析を行ない,現在と今後への示唆となる考察を加えていく活動を柱としています。基本的に過去を追いかけています。

しかし,過去を追いかけるためには資料が必要になります。記憶だけでは無理です。

過去に資料が作成されて保管され,現在の私たちが資料を入手し参照することで,初めて過去を追いかけることができます。人間の記憶も,何かしらの資料として記録されていなければ,忘れられてしまうか,そうでなくとも呼び覚ますことが難しくなります。

資料の保管と公開。

歴史を追いかける活動にとって,それがどれほど重要であるか,調べ事をするたびに痛感します。

過去を扱うのはとても難しいです。

分析や考察の際,何を拠り所にするのかという問題と,どう解釈するのかという問題とそれらをもとに何を示唆するのかという問題が複雑に組み合わさるからです。

たとえば,残された情報が無かったり少な過ぎても困るし,逆に多すぎても困ります。一次情報(primary source)と二次情報(secondary source)の扱いにも注意は必要です(世の中には三次情報 tertiary sourceという言葉さえ出てきています)。

たとえば,記録された情報をポジティブに読みとくのか,ネガティブに読みとくのかで,過去の見せ方が変わり得ます。

たとえば,過去の歴史事象を踏まえて,肯定的な示唆や助言をするのか,否定的な示唆や批判を加えるのかも選択次第です。

資料があれば,すべて解決されるわけではない。これも肝に銘じなければなりません。

私自身,いま生きている日々の出来事について,分かっていると思い込んで,あえて記録や発信することを面倒くさがったり,後手に回したりすることがあります。

しかし現在は過去に移行して,磨りガラスの向こう側へと移ってしまうことに気づきます。まだ見えているつもりでも,確実に遠ざかり見えなくなっていきます。そうなってからハッとして記録を残そうとすることを繰り返しています。

確かにこの界隈では「ポスト・トゥルース」「オルタナティブ・ファクト」「フェイク・ニュース」といった言葉が飛び交い,日本の私たちも「風評」や「デマ」や「虚偽」や「誤報」といった言葉に悩まされ続けている毎日です。過去だけでなく,現在をつかまえるのさえ難しく感じます。

情報があれば,すべて解決されるわけではない。これも肝に銘じなければなりません。

 

それでも「今日の記録と発信が明日の情報になる」のだということ。

 

そのことを,今日という日にあらためて思うのです。

日本のプログラミング教育言説の採取 -1

日本の識者がプログラミング教育や教育の情報化について,どのように述べているのか採取していきます。(※必要部分のみを採取しただけなので前後の省略に関しては元資料を参照のこと)

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堀田龍也(2016)「プログラミング教育が目指すもの」,総合教育技術10月号,小学館(「教職ネットマガジン」に再掲)

(人工知能がこれから発展することによって…できるようになるはずです。)「こうしたことが社会の常識となった時代に、それがいったいどんな仕組みでどうやって行われているのかということを、私たちは分からないままでいいのでしょうか。」(堀田龍也2016)

「特に子どもたちには、少なくとも次のようなことを知っておいてもらう必要があります。
・コンピュータはプログラムで動いているということ
・プログラムは誰か人が作っているということ
・コンピュータには、得意なところと、なかなかできないところがあるということ」(堀田龍也2016)

「今回導入される、プログラミング教育は、プログラマー育成をするわけではありませんから。そこで文科省は、この教育を通じて身につける思考を「プログラミング的思考」と名付けました。つまりプログラムを学ぶのではなく、コンピュータを動かす体験を通じて思考方法を学ぶということです。」 (堀田龍也2016)

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山西潤一(2017)「年頭所感  未来の創り手を育てる教育工学研究 (2017年2月)」(日本教育工学会Webサイトに掲載)

「30年前、情報化が進むことで、私達の身の回りには便利なブラックボックスが増え、誰もがボタンを押せば、全て自動でしてくれる便利な道具が増えることを喜んだ。しかし、ブラックボックスでいいのか、そこに新たな問題が生じる。」(山西潤一2017) 

「発達段階に応じて、ブラックボックス化したシステムの中身を考え、どのような仕組みで動いているのか分かることが重要だ。望ましい情報化は一部の専門家のみに任せるのではない。中身がある程度理解できれば、その便利さや危うさも理解できる。そのためには自らシステムを作ってみるのが一番。」(山西潤一2017) 

「プログラミングの経験のない先生方にとっては、コンピュータ言語を覚える、その仕組まで・・という不安がある。しかし全く問題ない。より分かりやすいコンピュータ言語もあるし、日本語で手順が説明できればいいのだ。私の経験から言えば、小学生が1,2時間で理解できる内容だ。」(山西潤一2017) 

(エストニアの教育事情を視察した。)「プログラミングを学ぶための学習ではなく、道具としてコンピュータやロボットを活用しながら、表現力や創造性、論理的思考力を育んでいた。そこには教師主導の伝達主義的教育ではなく、まさしく児童生徒中心の構成的教授法に基づく授業が展開されていた。日本のプログラミング教育もそうありたいものだ。」(山西潤一2017

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美馬のゆり(2016)「プログラミング教育って何? 本当に子どもに必要なの?」(インタビュー記事)

「プログラミング教育とは、プログラムができるようになるということではなく、プログラミングというものの考え方を学び、思考のための道具を身につけることだと考えています。」(美馬のゆり2016)

「コンピュータができたことで生まれたものの考え方に「計算論的思考」というものがあります。ひとことでいうと、あえて自分がコンピュータになったかのようにものごとを考えていくと、いろいろな問題がうまく解ける、という考え方です。」「プログラミング教育というのは、プログラミングを学びながらこのような計算論的思考を身につけるためにあるのだとわたしは考えています。」(美馬のゆり2016)

「世界が急速に変化しているなかで、世の中で起こっている問題の解決の糸口を見つけていかなければならないとき、いろいろな考え方、ものの見方ができることがとても役に立つからです。」(美馬のゆり2016)

美馬のゆり(2016)「料理はプログラミングだ!」(インタビュー記事)

「創造性をどう伸ばしていくか、というところにこそプログラミング教育は注力してほしいと思います。」(美馬のゆり2016)

「必修化するのであれば、教員養成をきちんとやっておかないと大変なことになると思います。準備不足で導入してプログラミング嫌いを増やすことになる前に、教員がプログラミングの本質を授業で伝えられるようなツールや副読本を作り、授業の実践事例を広めていかなくてはいけないでしょう。」(美馬のゆり2016)

「料理って、アルゴリズム(問題を解く手順)そのものなんです。」(美馬のゆり2016)

「どういう手順で、どういう制約のなかで料理をしているのか、自分の頭のなかにあるものを一度言語化してみて、どうやったら効率的に料理ができるようになるか、パズルのように考えてみてはいかがでしょうか。」(美馬のゆり2016)

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岡嶋裕史(2017)「なぜ子どもにプログラミング教育が必要なのか」(インタビュー記事)

「なぜプログラミング教育が必要なのかといえば、これからの社会において仕事の進め方が大きく変わっていくからです。」(岡嶋裕史2017)

「プログラミングの基本的な知識の有無で、リーダーシップや他者とのコミュニケーション能力にも大きな差がついてしまうわけです。」(岡嶋裕史2017)

「いまは世の中のしくみの大きな部分を情報技術がつくっているので、それを知った上で社会に出ていくことは、大きなアドバンテージになると思います。だからこそ、小・中学生のプログラミング教育が注目されているのだと思います。」(岡嶋裕史2017)

「プログラミングは英語と同じように、あくまでツールなんです。理科や社会を勉強するツールとしてプログラミングを利用することで、これまでは実験すらできなかったような分野での試行錯誤が可能になったり、異なる視角からの理解が可能になる。その結果、学習能力全般が向上する側面もあると思います。」(岡嶋裕史2017)

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原田康徳(2016)「子どもだけではなく全ての日本国民にとってプログラミングが重要である、たった1つの理由」(インタビュー記事)

「人間とコンピュータがそれぞれ足りないところを補って共生していくためには、全ての人がコンピュータの良いところとダメなところを知っておく必要があります。また、『コンピュータとは何か』を追究すると、『計算するとはどういうことか』『モノを覚えるとはどういうことか』など、つまり『人間とは何か』が分かってきて面白いです」(原田康徳2016)

「コンピュータは、今の世の中を劇的に変えている最も大きな要因の1つです。人間から仕事を奪っている一方で、その周りには新たな仕事が生まれています。それにもかかわらず、コンピュータとは何なのかを理解するのはなかなか難しい」 (原田康徳2016)

「プログラミングを行うことで、コンピュータの“ワケの分からからなさ”が少しずつ理解できます」(原田康徳2016)

「『コンピュータとは何か』という純粋にコンピュータを教える時間はコンピュータの専門家が年間で2時間ほど担当するだけで十分です。先生たちには、子どもと同じ目線で授業を受けてもらい、そこから各教科にどう役立てていけばよいのかを発見していただきたいですね」(原田康徳2016)

「小学校のプログラミング教育では、コンピュータの深い知識を教える必要はありません。コンピュータ上で起こっている不可思議な現象には、全てちゃんとした理屈があることを、子どもたちに何となく理解してもらえればいいと思います。」(原田康徳2016)

「今の情報化社会は一部のお金持ちとエンジニアが作っているものです。ここに、一般の人が入ってこないと文化として豊かなものになりません。これからの情報化社会を文化的に豊かにするために何ができるのかを、私も、皆さんと一緒になって考えていきたいと思います」(原田康徳2016)

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阿部和広(2017)「プログラミングの本質と学びへの効果」(インタビュー記事)

「プログラミングは目的を考えるとダメになります」(阿部和広2017)

「プログラミング学習で論理的思考力を養えるといった謳い文句を目にすることもありますが、プログラミングを学習している子どもが論理的になるかどうかは現時点では不明です。プログラミングという行為自体は高い論理性を求められますが、プログラミングが論理的思考力を養うかどうかはまだわかっていないんです。」(阿部和広2017)

「小学生の段階からスマホアプリのコードが書けるようになっても有能なプログラマーになれるという保証は一切ないです。むしろ有能なプログラマーに求められる能力は、コンピューテーショナル・シンキングができるかどうかです」(阿部和広2017)

「プログラミング的思考はコンピューテーショナル・シンキングの一部分」(阿部和広2017)

阿部和広(2017)「「プログラミング教育」における教師や大人の役割」(インタビュー記事)

「学校でプログラミングの教育体制を作っていくうえで何より大切なのは、先生自身がプログラミングを実際に体験することです。体制づくりの過程で、まずは先生が主役になる。そのうえで、子どもが主役になる授業展開ができるようにするんです。」(阿部和広2017)

阿部和広(2015)「Scratchプログラミングをなぜ子供たちに伝えるのか」(インタビュー記事)

「プログラミングを学ぶ理由の一つとして、論理的思考力がよく挙げられる。これは、プログラムが論理的である以上、プログラムを正しく書いて動かすためには論理的思考ができないといけないから、結果として身に付くであろうということだ。ただし、この論理的思考力というのは、どちらかというと二次的な結果、副次的な結果として身に付くのだろうと考えている。」(阿部和広2015)

「プログラミング学習においては、間違うこと自体がむしろ積極的に肯定される。間違いを直すこと、つまりデバッグが、大変効果的な学習となる、言い換えれば、試行錯誤しながら目標に近づく態度が身に付く。プログラミングをすることにより、この態度が自然と身に付いて習慣化することこそが、一次的な目的なのだ。」(阿部和広2015)

 

コンピュテーショナル・シンキングについて

今回は「プログラミング教育」「プログラミング的思考」「コンピュテーショナル・シンキング」に遡るお話。

平成29年度告示予定の学習指導要領で,小学校は総則において「児童がプログラミングを体験しながら,コンピュータに意図した処理を行わせるために必要な論理的思考力を身に付けるための学習活動」を各教科等の特質に応じて計画的に実施することが盛り込まれました。

遡ると,中央教育審議会の答申の「情報活用能力とは、世の中の様々な事象を情報とその結び付きとして捉えて把握し、情報及び情報技術を適切かつ効果的に活用して、問題を発見・解決したり自分の考えを形成したりしていくために必要な資質・能力のことである。」(37頁)という記述に対する補足説明で,これには「プログラミング的思考」も含まれると明記されたからです。

さらに遡ると,「小学校段階における論理的思考力や創造性、問題解決能力等の育成とプログラミング教育に関する有識者会議」の「議論の取りまとめ」には,プログラミング的思考に対しての補足説明で「いわゆる「コンピュテーショナル・シンキング」の考え方を踏まえつつ、プログラミングと論理的思考との関係を整理しながら提言された定義である。」と書いてあります。

というわけで,そもそもの出発点である「コンピュテーショナル・シンキング」(computational thinking)って何?ということになるわけです。

今回は定義に関する議論はひとまず置いといて,言葉の出所を見てみたいと思います。

英語版Wikipediaの項目には,1980年頃にシーモア・パパート氏が初めて使ったなどと解説されています。

しかし,「コンピュテーショナル・シンキング」が注目を集めるようになったきっかけはJeannette M. Wing氏が書いたマニフェスト的論文「Computational Thinking」が2006年に掲載されてからだとされています。

このWing氏の英語論文と,日本の「情報処理」誌(情報処理学会)に掲載された日本語翻訳版がインターネットで公開されています。

論文「Computational Thinking」
http://www.cs.cmu.edu/afs/cs/usr/wing/www/publications/Wing06.pdf

翻訳「計算論的思考」
https://www.cs.cmu.edu/afs/cs/usr/wing/www/ct-japanese.pdf

ちなみに「Computational Thinking」の日本語訳は「計算論的思考」。

もしもプログラミング教育が行なわれることになった背景について議論をするのであれば,この論文を一読することは大事なことです。

さて,ここで余計な手出しをするのがりん研究室の悪い癖。

せっかく翻訳していただいた日本語版ですが,柔らかいものしか読めなくなってしまった私には,一読してもすっと内容が入ってこないのです。

[追記:「情報処理」誌のご意見アンケートにも「■翻訳の表現が硬く,この記事が掲載されている意義がつかみとれませんでした.(匿名希望)」とあった…う〜む]

それだけ私が情報処理分野に疎いということなのだと思うのですが,一方で,もっと一般の人が読みやすい文体に直してもよいのではないかと思ったのです。

コンピュテーショナル・シンキングとは,ごくごく一般の人々も持つべき基礎的能力であるとWing氏は主張しています。であれば,一般の人に読んでもらうことを意識した翻訳バージョンがあってもよいのではないかと思いました。

そしてその主張について様々な講演や解説をしているWing氏の動画を拝見したところ,彼女自身はとても明るくて優しい感じの方で,なのにとてもエネルギッシュかつ分かりやすく内容を伝えようとしている姿が印象に残りました。丁寧に説得するような文体の方が,ご本人の雰囲気にも合っているのではないかと思えたのです。

というわけで,諸々の失礼や課題の件はあとで考えるとして,とにかくコンピュテーショナル・シンキングに関する主要論文を読んでもらいやすい形にしよう。学習用として翻訳し直そうと取り組んだのが次のものです。

学習用翻訳「計算論的思考」 
https://ict.edufolder.jp/archives/1278

訳が十分こなれているとは言えませんし,内容に関して誤解している個所もあるかと思います。いろいろフィードバックをいただければと思いますが,とにかくいろんな人に読んでいただきたいので,拙い翻訳を紹介させていただきました。

追記

学習用翻訳「計算論的思考, 10年後」
https://ict.edufolder.jp/archives/1286

学びを見通す力を探しに -2

次期学習指導要領案に「学びの地図」という言葉は入らなかったものの,そのイメージは大事にした方がよいと書きました。

ただ,答申に書かれた「学びの地図」の扱い方は実に男臭い感じがします。

かなり前にベストセラーとなった本に『話を聞かない男、地図が読めない女』というものがありましたが,その本の図式を借りれば、答申における「学びの地図」提案は,目標達成を重視する男性的な観点から地図を扱おうとしているようにも読めます。

しかし、学校や社会に目を向けると,実際の性別と結びつくわけではありませんが,男性的な捉え方をする人と女性的な捉え方をする人の両方が混在しているわけですから,「学びの地図」に対する捉え方にも幅を持たせる必要があります。

では,ここでいう男性的な捉え方ではないもの(一方の女性的な捉え方)とは何だと考えたらよいのでしょうか。

私事ですが,学生時代は書店アルバイトを続けていました。若かったので力仕事もある返品作業やら入荷した雑誌の並べのような仕事に関わりました。

その書店は女性社員の方が多かったので、休憩室には新聞以外にもファッション雑誌がずらっと並び,私も扱っている商品の勉強がてら眺めていたという経験があります。

ファッション雑誌には,手持ちのファッション・アイテムをどう着回せばよいのかを指南する「30日間ファッション・コーディネート」のような記事がよくあります。

その日の目的や気分に合わせてアイテムを選択して組み合わせるというのはファッションの一つの難しさであり楽しみでもあるわけです。ファッション雑誌は,そうしたアイテムチョイスとコーディネートの例をずらっとカレンダーのように見せているわけです。

私が書きたいことはもう察しがついていると思いますが,こうしたファッション雑誌流の捉え・考え方を「学びの地図」にも適用できないかというわけです。

教育・学習内容の項目にコード番号が付されて,あたかも音楽のプレイリストのように自分に合った学習リストを作れるようになるということを前回書きました。

この「自分に合った学習リスト」を,まるで自分の部屋の本棚を埋めるように考えるのであれば,それがここで言うところの答申的な「学びの地図」の捉え方ということになります。

しかし「自分に合った学習リスト」とは,自分が身につけるファッションのコーディネートであると考えたとき,そこにはファッション雑誌的な「学びの地図」の捉え方もあるのではないか。

そうすると私たちに足りないものがあるとすれば,学びの「ファッション雑誌」かも知れないし,「モデルさん」なのかも知れないし,「スタイリストさん」なのかも知れない。

子どもたちの学びを見通す力が何なのかを考えるにあたっては,そういう新しい要素の可能性も合わせて考える必要があるのかも知れません。

さて,先生はどんな存在になれるのでしょうか。全員がカリスマ美容師にはなるとは思いませんが,次はそういうことを考えてみたいと思います。

学びを見通す力を探しに -1

平成29年度告示予定の新学習指導要領の案が公表されました。

審議を経て出された「学習指導要領の改善及び必要な方策等について」の答申がもとになっているわけですが、実に様々なキーワードが飛び交った審議と答申でした。

たとえば「資質・能力」「アクティブ・ラーニング」「主体的・対話的で深い学び」「社会に開かれた教育課程」「学びの地図」「カリキュラム・マネジメント」などのキーワードです。

このうち学習指導要領案に残されたのは「資質・能力」「主体的・対話的で深い学び」「社会に開かれた教育課程」「カリキュラム・マネジメント」といった言葉でした。

「学びの地図」という言葉が学習指導要領案から落ちたのは少し意外でした。先の答申でも

「学校教育を通じて子供たちが身に付けるべき資質・能力や学ぶべき内容などの全体像を分かりやすく見渡せる「学びの地図」として、教科等や学校段階を越えて教育関係者間が共有したり、子供自身が学びの意義を自覚する手掛かりを見いだしたり、家庭や地域、社会の関係者が幅広く活用したりできるものとなることが求められている。」(20-21頁)

と書かれている通り,教科横断的な資質・能力を育んでいこうとすることを前面に出していく次期学習指導要領や今後の学校教育において,学びを見通す「地図」というイメージを打ち出すのは大事と思うからです。

もちろん堅い言い方として「教科等横断的な視点」という表現が全体を鳥瞰する姿勢を示しているのでしょうし,のちに作成される手引きにおいて「学びの地図」という考え方が解説されるのでしょうから,まるきり消えたわけではないと思います。

とはいえ,もう少し教育課程(学習内容)全体を見通す行為を,学習者にとっての「地図」の作成や読み解きとして捉えていく立場を強調しても良いのではないかと考えます。

文部科学省は2月8日に「学習指導要領における各項目の分類・整理や関連付け等に資する取組の推進に関する有識者会議」を設置すると決定しました。

この会議は「次期小・中学校学習指導要領を一定のコードにより整理していくに当たっての,基本的な方針や留意点等の整理,それに基づくコード試案の作成」のための検討を行うことが目的です。

すごく乱暴にいえば,学習指導要領の教育内容項目をバラバラにしてコード番号を付す作業を目指しているわけです。

これはつまり,音楽アルバムをiTunes等の音楽配信サイトで曲単位の販売・配信したときと同じことが起こることを意味しています。アルバム側の楽曲リストに縛られず,リスナー側のプレイリストで音楽を楽しむという流れのことです。

学習指導要領の教育内容項目にコード番号を振り、教科を越えて関係する教育内容項目の組み合わせをコード番号で表現しやすくなれば,学習者にとっての学びの組み合わせ(地図あるいはプレイリスト)を作成することが容易になるわけです。

図書館情報学の分野ではメタデータに関する知見の蓄積がありますが,この有識者会議においても今後そうした知見が踏まえられながら検討が進められることになると思います。

システマチックな学びの地図の基盤を整えることも大事ですが,学校における教育学習活動の中で,子供たち自身が自分の学びを見通す力をつけることを考えることも大事になります。

次はそのことを考えてみたいと思います。