教師のバトン

2021年3月26日から開始された「#教師のバトン」プロジェクト。

文部科学省による官製プロジェクトとしては異例なほど注目の的となり、学校の先生たちの仕事にまつわるツイートが玉石混交問わず集まり続けている。一種のゲートウェイ(接合点)のようなハッシュタグとなった。

幾度か、そこで展開している事態や現象について論じてみようかと思ったりもしたが、著名人たちが首尾よく反応してポジションオピニオンを記すのを見て、その気持ちもすっかり萎えてしまった。

このプロジェクトにアドバイスをしているであろう人々の生真面目さも、当事者の自作自演的な構造から脱する回路が認められないところを見せられると、何かを言って傷つけるより、そっとしておいてあげるのが一番という気にもなる。

ハッシュタグを検索すればツイートを参照することができる。 https://twitter.com/search?q=%23教師のバトン

2021年4月11日22:30すぎで2万6千のツイートがなされたと記録(Yahoo!リアルタイム)で見ることができるが、魚拓のためTogetterで収集されたツイートは3万を超えている。ツイート収集条件やリツイートの扱い、すでに削除されたものなどの数え方の違いもあると思うが、とにかく3万ツイートは超えて現在も増加中である。

感情の割合グラフは、単語の分類にもとづいた単純な判定だと考えられるので、ツイートそのものがポジティブなのかネガティブなのかを分析したものではないと保留を付けたほうがよい。とはいえ、実際にツイートを参照していったときの印象をわりと齟齬なく表した割合とも感じられる。

ツケを払う時期が来ていることは明らかなのだが、払うだけの懐が用意できていないのも事実。取り組む順番にこだわっている余裕はないはずだが、順番を飛び越せるほど単純な仕組みでないのもまた事実。意地を張っている場合でないことは誰もがわかっているけれど、誰かのプライドが許さないだけで動けないことがあるのもまた現実。

解法は一つではないし、自然解決することもないなら、考え続けるしかない。そのための素材が差し出されている。

今年のエイプリルフールネタ裏話

今年のエイプリルフールはネタはこれでした。

本物はこちらで公開されているもの…


説明が必要なジョークほど野暮なものはないので、正直ネタとしては失敗だったと思います。しかも、前日には有識者会議の中間まとめも登場していて、ネタがちょっと埋もれた感じになってしまいました。関係する議員連盟でも教育データの話題で盛り上がっているようです。


製作作業としては、PDFファイルをAdobe Acrobatで読み込み、PowerPointファイルとして書き出したものを編集するかたちで進めました。表紙タイトルの文字フォント指定をちょっと間違っちゃったのを除けば、まあまあそのまま。

本来であれば、もっと笑える側に振り切るか、辛辣な皮肉側に振り切るかすべきでしたが、準備時間も多くはとれなかったので、小手先編集で終わったネタでした。可能であればご笑覧ください。


やればできるじゃない_20210401

令和3年度が始まりました。

昨年度に進められたGIGAスクール構想の実現整備によって、今年度から全国の小中学校に情報端末が配布された状況となりました。一部、物資納品の遅れなどによって手にしていない学校もありますが、基本的には児童生徒数分の端末が学校に存在することになったのです。

関係者の皆さんは、ここに至るまで、またはここからしばらくは、尋常ではないご努力をなされていることと思います。まずはそのことを素直に労いたいと思います。

日本という場では、何事も一律に展開しないと気が済まないものですが、そのために概して時間がかかったりして、いつも結果が中途半端になりがでした。今回の情報端末整備の事業も、本来であれば4〜5年かける計画でしたから、また途中うやむや雲散霧消するだろうと誰もが想像していました。そこにコロナ禍でした。

人間だと誰も全面的な責任を引き受けたくはないから、薄めて延ばしてペラペラにしてしまうところを、すべてウイルス感染拡大のせいにできる混乱が引き受けていってしまいました。やればできるじゃない…というのは、この状況下には不適切な言葉ですが、日本の教育の情報化の変遷を眺めていると言いたくもなる一言です。

年度開始にあたって、今一度、現行学習指導要領(2017年改訂)を確認することから始めましょう。

そして、中央教育審議会答申である「令和の日本型学校教育」の構築を目指してを押さえておくことが重要です。

ICT利用は、ルーチンワークをこなして定着させていくことから始まるでしょう。

たとえば児童生徒の朝のルーチンとして端末起動したら、バッテリー容量を確認する、ネットワーク接続を確認する、メールのチェックをおこなう、デスクトップやアイコンの並びを整理しておく、健康アンケートにこたえる、など定型作業を設定することです。

朝のルーチンが定着すると、その日に端末を使う授業があれば、事前準備や予習につながっていくかも知れません。あるいはそうアシストや仕掛けをつくっていくことが可能になります。

ベイトソン「学習とコミュニケーションの階型論」

今までもそうでしたが、今後もさまざまな議論の前提として重要なベイトソンの学習に関する論を確認し直しておきます。

〈ゼロ学習〉
反応が一つに決まっている

〈学習Ⅰ〉
反応が一つに定まる定まり方の変化。すなわちはじめの反応に代わる反応が,所定の選択肢群のなかから選びとられる変化

〈学習Ⅱ〉
〈学習Ⅰ〉の進行プロセス上の変化。選択肢群そのものが修正される変化や,経験の連続体が切り取られる,その切り取られ方の変化

〈学習Ⅲ〉
〈学習Ⅱ〉の進行プロセス上の変化。代替可能な選択肢群がなすシステムそのものが修正されるたぐいの変化

〈学習Ⅳ〉
〈学習Ⅲ〉に生じる変化。地球上に生きる(成体の)有機体が,このレベルの変化に行きつくことはないと思われる

ベイトソン「学習とコミュニケーションの階型論」(『精神の生態学』)を要約


学習内容の習得といった学習Ⅰを安定させることが長らく学校教育の役目とされてきたとすれば、学び方を学ぶといった学習Ⅱを伴うことが今般(平成29年改定)学習指導要領で目指されているとも言えます。ところが、実のところ私たちに求められているのは、持続可能なシステムへの転換といった学習Ⅲ水準であったりするわけです。そのことがいかに難易度の高いことかは重々承知をしているものの、もはや逃れられない課題として私たちにのしかかっているという文脈を共有しなければ、前に進むことは出来ないのです。

五十の坂を越して

わたくしごと、五十の坂を越えました。

半世紀前に私を招いてくれた両親に感謝しつつ、あっという間の感覚であるにしても50年という年月にはいろいろあったことを思い出したりします。

先に坂を越した諸先輩方の経験談をじっくり聞くような機会を求めてこなかったこともあり、どのような所作が相応しいのか知るのは相変わらず手探りですが、結局は自分なりの過ごし方になるのだろうなと思います。

このタイミングで、とある雑誌にお声掛けをいただき、特集の筆頭原稿を書かせていただきました。

街の書店に並んだ掲載号は、全国あちこちに誕生日プレゼントが置いてあるような気分になって嬉しくもありましたが、一方で、原稿の出来に関しては、私の筆力の乏しさに自身で意気消沈することにもなりました。

坂を越してもなお、自らの未熟さは幾度も自覚しなければならないと思うところです。活躍の場は他の人に譲ること、肝に銘じなくてはなりません。

個人的には、資料集めフェーズにあった歴史研究を、そろそろ畳み込むフェーズに移さねばならないと思っていること。キャッシュレス決済に関する学習教材の開発が出来ればいいなと思っていること。

あと、生きて元気でいるうちにはヨーロッパ旅行が出来るといいなと思っていますが、際どいかも知れません。

残りの人生も、あれこれ過ごせればと思います。