curriculumとpathway

日本教育メディア学会年次大会2日目。

朝の身支度に時間がかかり遅れて会場に着く。課題研究1「情報活用能力の育成に資するメディアを活用した教育実践」に加わって,発表や議論を聞いていた。

小学校外国語やプログラミング教育に隠れてしまいがちであるが「情報活用能力」という言葉が学習指導要領に登場するのは平成29年版が初めてとなる。

平成元年の中学校「技術・家庭科」における選択領域「情報基礎」の導入や平成11年の高等学校・普通教科「情報」の新設といった改訂を経て,およそ30年もの歳月をかけて学習指導要領の中に「情報活用能力」という言葉が入ったことになり,確かに今さら感も強い。

ようやく正式な学習指導要領上の文言となった「情報活用能力」を,どのように学校の教育課程の中に位置づけるのか。情報活用能力育成のためカリキュラムの模索が一層活発化しているのは確かである。

課題研究の議論でも,デジタル・タキソノミーを援用した情報活用能力モデルカリキュラムの開発について報告があったことから,体系的なカリキュラムデザインやカリキュラム・マネジメントについて言及された。

教科横断的な資質・能力を重視した学習指導要領の実施を目前に,学校におけるカリキュラム・マネジメントのもと,教育課程をマッピングしながら矢印を結ぶ作業が,先進校を中心に行なわれている。

そんな試みをあれこれ見ていると,それに「カリキュラム」という言葉をそのまま使っていてよいものか,ふとした疑問も湧く。

やりたいことは「カリキュラム」(curriculum)という体系なのか。

むしろ「パスウェイ」(pathway)といった道筋を描きたいのではないか。

中教審答申において学習指導要領を「学びの地図」と表現していたが,そのメタファを活かすならば,地図におけるそれぞれの目的地へのルートを探索しているか,その候補を生成しようとしているのかも知れない。

付け加えるならば,この場合,単に人力のルート探索をするというだけでなく,辿ろうとする道筋のイメージ(通過する場所や続く景色の様相への想像力)を持っておくことが大事になる。

これまでも教科書会社の教師用指導書がモデルコースや指導のルートを提案してきた。けれども,あらかじめしつらえられたコースやルートを辿るだけでは立ち行かなくなってくるのが新しい学習指導要領の考え方ではないのか。

そのため先生たちは,自分自身で目的地まで辿ることが出来る力能を持たなくてはならない。地図を読み取って,どの道を選択するのか判断する際に,どこをどう通過することで学習者にとって豊かな学習のパスウェイ(軌跡)になるのかという想像力が必要なのだと思う。

学びを旅路に喩えるならば…

あらかじめ決めたルートやコースで充実した旅もある程度可能かも知れないが,相手の嗜好に合わせてガイドをしながら旅路を紡ぎ出すことで,より学びを深める機会となるのではないか。

こう考えると,カリキュラムという言葉で考えるよりも,パスウェイという言葉で考えていった方が,学校の先生方にとって(それを感得するまで遠回りかも知れないが)今後より必要となる職能を得るのに適しているのではないかと思われる。

そもそもカリキュラムでは大き過ぎて個々の先生方には荷が重いはず。

カリキュラムからパスウェイへ。発想の転換も必要かなと考えた学会参加だった。

20181124_日本教育メディア学会

日本教育メディア学会年次大会初日。

鹿児島大学附属小学校での公開授業から始まった。4年生の総合的な学習の時間で「附属小学校の伝統を伝えよう」という単元。附小クイズを作成して,クイズに解答してもらう活動を通して学校の伝統を知ってもらうことを目指していた。

その際,選択クイズを出題するツールとしてScratchを利用し,そのプログラムの流れを考えるのが今回の授業であった。

選択問題のScratchプロジェクトを作成する際,回答に応じた処理が必要となり,「分岐」という考え方と「もし」ブロックの利用へとつなげていく。授業案で想定されていたのは,そのような展開である。

子どもたちは,前時よりペアになってクイズのプロジェクトを進めており,問題と回答に応じて表示する画面などはすでに作業が終わっているものの,回答に応じて表示するための処理は分かる子達以外は組み込めていないという状況だった。

伝統を低学年に伝えるためのクイズ作成という軸はぶらさずに,選択クイズをプログラミングしていくわけだが,ペアごとにブロックの組み立て方がバラバラなので,たとえばキー入力待ちの処理のしかたも,「ずっと」ブロックを使うペアあり,「○秒待つ」ブロック後に「もし」ブロックでキー判定するペアあり,そのまま「もし」ブロックを使っているペアあり…と動くものもあれば動かないものもあったりする。

今回の授業では,回答によって結果が変わることの必要性と「もし」ブロックの存在を知ることがひとつの目標だったが,限られた時間でプログラミング活動をする難しさみたいなものをあらためて感じた授業だった。

その後は一般発表と鼎談企画へ。

一般発表では「プログラミング」関連を聞いていたが,やはりまだまだ模索段階にあるなぁと感じた。その模索を否定したいわけではないのだけれど,ある程度厳しい問いに晒しながら進めないと,ごっちゃに受け止められてしまう懸念もある。

鼎談企画は「教育メディアのこれまでと展望」と題して,日本教育メディア学会と学会紀要の論文の歴史を振り返りながら語るもの。

教育と情報の歴史研究に携わっている私としては,興味津々のテーマと内容であった。携わっているといっても私自身は教育とコンピュータの領域から取りかかっているため,視聴覚教育の領域に関しては学ぶことばかりである。

学会前身の「視聴覚教育研究協議会」の第1回が1954年に行なわれた際,「わが国における視聴覚教育の現状」として「放送教育」「映画教育」「幻燈教育」「紙芝居教育」「視聴覚教育資料」「視聴覚教育の諸問題」「The Use of Audio-Visual Materials in the USA」といった立場からの発表があったという。こうしたキーワードから過去について,また今後の展望についていろいろな語りが出ていた。

その中ではかつての「西本・山下論争」を振り返って,昨今では「論争」があまりないこと,学会でもっと論争すべきといったご意見もあった。

ただ,論争がないというのは,多くの人々が注目をする論争のための場がないだけで,細々としたところでは異論を唱え合っているという事態は進行している。学会という場が論争の場になるためには,そうした言論空間の時代変化に対応していく必要があるだろう。

今回は学会史の序盤だけで終わった感じである。

そして,来年の年次大会で続編を企画しようかという話も出た。教育と情報の歴史研究会も再始動させて,徳島でも歴史を振り返る機会を持てるようにしたい。

20181123_Fri

日本教育メディア学会の年次大会参加のため鹿児島へ。

朝から自家用車で神戸空港に向い,そこから飛行機で鹿児島空港に移動した。前回,鹿児島に訪れたのは2001年みたいなので,17年振りということになる。

鹿児島空港からバスで鹿児島中央駅へ。鹿児島のランチを検索して,黒豚とんかつの美味しいお店があるとのことなので降り立ったバスターミナルからトコトコ歩いて「黒かつ亭」。行列には並んだが,とんかつ自体は美味しくいただいた。

学会理事会は8期が終わり9期へとバトンタッチ。

変わり種として身を置かせていただいていた私も理事の任を解かれ,唯の学会員に戻った。と思ったら,あんまり仕事してなかったことがバレたので,来年度の年次大会の開催担当をする宿題が課されて,期間限定の理事招聘をいただいた。

というわけで,2019年度の年次大会は徳島である。

2019年11月2日(土),3日(日)に徳島文理大学の徳島キャンパスで日本教育メディア学会の第26回年次大会を開催する。

今回はそのバトンを鹿児島までもらいに行くというのが主目的である。

20181122_Thu

保育原理は,発達段階のお話。

ベタではあるが原理の授業なので「エリクソンの8つの発達段階」を紹介した。「乳児期」「幼児前期(早期幼児期)」「幼児後期(遊戯期)」「児童期(学齢期)」「青年期」「初期成人期」「成人期(壮年期)」「成熟期(老年期)」と並ぶ,アレである。

保育や幼児教育に関わる前半部分を紹介するのだが,個人的にこの話題は話していて楽しい(いつも楽しそうに講義していると言われるけれど)。乳児さんから年長さんの様子をイメージしながら,赤ちゃんやちびっ子が何をしでかすかを話すのだから楽しくないはずがない。「あなた自分の子がいないから気楽にしゃべれるのよ」と言われてしまうかも知れないが,だとしても,子どもたちが招くテンヤワンヤを理屈を通して話せるのだから気にしない。

プロジェクト活動も,こうした発達段階を前提に考えてから進みたかったので,今回は一旦お休み。次回は子どもたちの姿や様子がわかる動画を探して視聴しようと思う。年齢によって身体的な違いや動作・行動の違いなどを掴めると面白いなと思う。

夕方に突然,実家からビデオチャットが舞い込み,姪っ子甥っ子が顔を出した。大きくなったねぇ。

卒業研究は地道に進行中。

小学生向け体験教室で縁のある学生が「プログラミング教育」をテーマとした卒業論文を書いていたそうで,相談にのることになった。どんなプログラミング体験が論理的思考力を育むのかを考えたいとのこと。

まずは,本人の現状認識を聞き出すところから。

一通り本人の考えや明らかにしたいことを聞き出した後,それらを論文として組み立てるための構造を考えるフェーズに移る。使う語の定義や先行研究のレビューの重要性,自分が注視しているものを説得力を伴って押し出すために必要な手続きなど,ボーカルとバックコーラスの関係を例え話に解説しながら,論文に必要なものを意識してもらった。

とにかく,そもそも論理的思考とは何かを調べて理解した上で定義する必要があるので,参考になりそうな関連文献(『思考・論理・分析』とか『論理的思考 最高の教科書』とか)を紹介した。残された時間は多くないので,あまり深入りしないで,ある程度のところで自分なりの説得的主張を決めた方がいいとアドバイスした。一応,ざっくり私の考えも紹介したけれど,それもひとつの考え方でしかないし,むしろ語られていないところに自分なりの論を展開すべきことも言い添えた。

大学キャンパスに献血車。

少し時間もあったし,体調も普通だったので,久し振りに献血することにした。記録を調べてもらったら8年ぶりだった。前回は平成22年だったらしい。そんなに前だっけ?時間ばかりが過ぎてしまう。

20181121_Wed

調べものと卒業研究指導。

学生たちが研究室で過ごす時間が増えてきた。現在の部屋に引っ越してきた時点で,そうした利用を想定していたので,ようやくそんな姿が増えてきて嬉しく思う。もっとも卒業研究自体はもっとピッチを上げてもらわないと困るけれど。

そんなこともあって,研究室の椅子を新調することにした。

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ベンチタイプは変わらないが,背もたれ付きのものに変更。今までは板の上に薄いクッションを敷いて座ってもらっていたが,座面もクッション式になり,ぐっと快適度が増した。これで来客に対しても優しい研究室になった。

長時間座ってパソコンや資料を見ていると疲れるが,伸びをするにしても休憩するにしても背もたれがあると大変楽だ。小さな環境改善だが,これで学習や研究がはかどってくれれば言うことはない。早くも横になって寝たがっている学生もいたけれど。

幼児教育や保育の世界では「環境を通して」ということが共通認識になっているところがあるし,大学教育においても「ラーニング・コモンズ」の重要性がますます大きくなっている。先日も各国の初等学校の教室配置と授業スタイルが異なることを話題としたWeb記事が紹介されていた(20181116「「国民性は小学校の教室から作られている」5カ国の小学校を渡り歩いた女性が語る日本の可能性とは?」AERA)。

また,メイカームーブメント(自作&ものづくり)でも,「メイカースペース」といった実験や工作等を自由に試行錯誤できる(ティンカリングできる)空間が重視されている。

学習空間をどのようにデザインするかは,単に居心地という次元を越えて,学習活動の行方を大きく左右する条件のひとつになっている。

逆に言えば,空間の制約によって私たち人間の行動や思考も制約が課されていると考えられるわけで,それが変わらないところに新たな課題や道具が降ろされたとしても,柔軟な対応を求めることは簡単ではないかも知れない。

私立や一部の公立学校では,オープンな雰囲気を備えた校舎や学校空間を持ったところが出てきている。もちろん新しい校舎で洒落た設計が為されただけで,活用に柔軟性がなければ意味がないけれど,もっと多くの学校空間の居心地や利用経験が柔らかいものになるといいなと思う。