諸外国の事例を調べる

 研究室が蔵書でひっくり返っている状態は変わらず,毎日の授業とあれこれの雑務に追われています。この頃は時間が過ぎるのも速く感じられます。
 12月11日に仙台で教育メディア学会の研究会があり,そこにお呼ばれをしました。いま取り組んでいるお仕事とデジタル教科書について話をせよという分担。そのためというわけではありませんが,調べものをしている最中です。
 特に,諸外国における教育の情報化やデジタル教科書への取組みについて確認をしておく必要があると思って,日々ネットサーフィンしています。一昔前なら「それ仕事?」と聞かれてもおかしくないですが,世界中の公文書や政府情報を見るには一番便利な方法なのです。だから(胸張って)仕事です!

 諸外国における「教育の情報化」もしくは「教育におけるICT活用」について情報を得る方法はいろいろです。
 一番敷居が低いのは,日本で流通している日本語の文献資料を参照することです。彼の地へ視察に出かけた人やコネクションがあって情報が入ってくる人が日本語で書いたレポートや記事があれば,比較的楽に知識が得られます。
 ところが困ったことに,こうしたレポートや記事は,旬を逃すとすっかり内容が古くなってしまうのです。しかも,頻繁に情報更新してくれるわけでもないので,新しい情報はわからず仕舞い。古い情報があたかも現在も通用するかのごとく流布し続けることも少なくありません。
 というわけで,最新の情報が知りたい場合,自分でその国にアクセスして調べる他ありません。もちろん,現地に直接出かけて視察するという方法も考えられますが,最近ではほとんどの国が政府Webサイトを立ち上げていますから,かなりの情報を遠隔地に居ながらにして得ることができます。
 場合によっては,文書をネットで取得し,じっくり翻訳しながら検討できる分,視察よりもたくさんの情報が得られる可能性があります。組み合わせれば,もっと深く知ることもできるでしょう。本当に便利な時代になりました。
 言語の壁は薄くありませんが,それでもインターネットと様々なツールを組み合わせれば,乗り越えられる場合も増えてきました。そして世はソーシャルメディアの時代。どうしても助けて欲しいときには,TwitterやFacebookを活用して,彼の地の人々に協力してもらうこともできるに違いありません。

 調べていくと,世界中の国々が教育の情報化に邁進していることがわかる一方で,実はそれほど順風満帆ではない現実も見えてきたりします。ただ,日本のモタモタした足取りに比べれば,明らかに世界は先へ進む歩調が速いです。
 ちょこちょこ訳した情報の下書きはFacebookなんかに載せているのですが,もう少し整理がついたら,こちらにも載せたいと考えています。

文教製品に必要なこと,5つのポイント

 WIRED VISION「Apple社のメディア戦略、5つのポイント」という記事に着想を得て,文教製品についても次のような5つのポイントがあるのではないかと考えツイートした。

(1) 文教製品は,完成させた製品で語って欲しい。中途半端な事務機転用商品で語るなら,いらない。

(2) 文教製品は,学校生活の物語を作るものであって欲しい。フリーズしてデータを失ったり,接続がうまくできずに諦めて,物語が途切れてしまうなら,いらない。

(3) 文教製品は,使いやすさと美しさのデザインにこだわって欲しい。操作にまごつくUIや洗練されてないデザインで,児童生徒学生の感性がざらつくなら,いらない。

(4) 文教製品は,入念に計画された製品で,生態系を育めるものであって欲しい。教室の置き場に困るような筐体や他社製品と組み合わせると機能せず,教室空間で生態系を組めないなら,いらない。

(5) 文教製品は,教師および児童生徒学生が使いたがるものであって欲しい。見ていて楽しい,使って嬉しい,そこにあって欲しいと思うものこそ,欲しい!

 具体的なイメージも必要かと思って「完成させた製品」の一つの例として書画カメラの「みエルモん」を挙げたりした。

 だからといって機器だけというわけではなく,ソフトウェアやコンテンツでも同じことを指摘したいのである。

 学校教育現場のニーズをすくい取ることは当然の努力として,それを文教製品としてどうまとめあげ,かつ完成された製品として人々をどう魅了するかを真剣に考えて実現して欲しいということである。

 そのためなら,教育現場にも研究分野にも協力者はたくさんいるはずだ。

成熟社会とデジタル技術

 鈴木寛『「熟議」で日本の教育を変える』(小学館)が書店に並んでいます。サブタイトルは「現役文部科学副大臣の学校改革私論」とあります。
 私たちにとっては「スズカン」という名を聞くと「コミュニティスクール」という連想が自然に出るくらい,2000年前後に起こったコミュニティスクールの議論において金子郁容氏とともに活発に動かれていました。
 アメリカのチャータースクールも注目を集めていたときでしたから,それと基本的には同じ考えであるコミュニティスクールにも注目が集まったわけですが,違いは何なのか,教育バウチャーとの絡みはどうなのか,そもそも現行制度との整合性はどうするのかといった疑問も飛び交い,話題としては一歩下がったところに落ち着くようになりました。
 結局,アメリカのチャータースクールの事例について,成功したところと失敗したところの落差もあって,当初の手を上げた人達が学校を作っていくというコミュニティスクールのイメージから路線変更し,地域で学校を支えていくという形で各地に広がっていったように思います。
 今回の新しい本でも,コミュニティスクールについて3段階あるとし,第1段階を「土曜学校,放課後」,第2段階を「学校支援地域本部」,そして第三段階を「本格的コミュニティスクール」と説明しています。

 鈴木副大臣は昔から一貫して,教育の工業化は終わりを迎えており,オーダーメイドの教育が必要であることを訴えており,そのための制度的な変革としてコミュニティスクールを唱え,そして学びの手法としてはコラボレーティブラーニング,つまり熟議のような方法で学ぶことを提案しているわけです。
 これに絡めてデジタル技術についても,熟議カケアイの場を支えるものとして触れているだけでなく,学びのイノベーションを起こすために必要なものとして位置づけています。そのためのデジタル教科書・教材なのだというけです。
 繰り返しになりますが,このような主張は,従来の義務教育システムの前提であった同一水準,同一内容の教育を提供するという考えに転換を迫っています。
 統一的な到達目標を目指して指導を展開していた教育のあり方を,個人ごとの到達目標の設定を前提として指導を展開していくわけです。それだけ教員側に柔軟で高度な対応力が必要とされます。
 だからこそ,本書でも教員自身のセルフラーニングの必要性が強調され,さらに教員養成と教師教育,教育大学院の重要性が記されているわけです。

 カリキュラム研究の分野からすると,この問題は「工学的アプローチ」と「羅生門的アプローチ」で有名な議論と重なり合います。
 カリキュラム開発に関するこの2つのアプローチにおいて,教育目的の設定と教育方法,さらには教員養成に関する項目にまで違いが指摘されています。
 特に羅生門的アプローチにおいては,教員養成の重要性が指摘され,教師の即興性が必要とされると掲げられていることからも,教員の資質の向上を何らかの形で支援していくことが必要なのは間違いありません。
 私個人は,教員に対して,人的支援,金銭的支援,知的支援を行なう条件整備をなるべくはやく構築することが大事だと考えています。
 人的とは,現在いる教員を支えてくれる秘書的な教育支援教員のような役職の制度的な確立を。金銭的とは,教員個人又は個別の学校に裁量権のある研究費の支給を。知的とは,教育実践や自己研修に必要な情報リソースの拡充を。
 こうした制度的条件整備を行なうことで,教育産業的にもビジネスが成り立つ目処が立ち,また子ども達に掛かりきりになる教員を外部と結びつけるための窓口ができ,普段からコラボレーティブな人的環境で仕事ができるようになる可能性が開けると思います。
 成熟社会における教育を実現する方法は様々あるとは思いますが,ますば教員がそのような社会にステップアップして参画できるように,デジタル技術などを駆使して,支えていく必要はありそうです。

田原「デジタル教育批判」本を斜め読みして

 デジタル教科書に関心のある人々の間で話題になっていた田原総一朗さんの『緊急提言!デジタル教育は日本を滅ぼす』(ポプラ社/1400円+税)を読みました。
 近所の本屋さんに売っていたのは意外でした。ハードカバーであることも含めて,やはり田原総一朗さんの影響力は大きいのだなと感じました。
 多少駆け足で目を通す感じの斜め読みをした感想としては,「デジタル教育」というキーワードに触れつつも,基本的には田原総一朗さんの教育論をまとめた本だと分かりました。
 筆者自身の提案なのか,企画した出版社の提案なのかは定かではありませんが,もともと田原さんの教育論が支柱にあって,そこに昨今の教育の情報化やデジタル云々も絡ませようとした結果であることは明白です。
 そのことを理解して読むと,この本を「デジタル教育批判」として受け止めて,その部分の記述を細かく反論することに意味がないことは分かります。
 細かい反論を試みる行為自体が,何かしら正解を出さねばならぬという意識から出発しているのではないか。
 確かに,困ったイメージ(デジタルやその技術の活用が教育に害があるかのようなイメージ)の流布を放っておくわけにはいかないと考えている人も多いので,そのためのパフォーマンスは必要と思いますが,それと合わせて,この田原本の位置づけをできるだけ背景を踏まえて明確にする努力も必要です。
 

 ここ数ヶ月,田原さんがメディアに登場する際,教育の問題について語る機会が多くなっていました。おそらく,この本を執筆していた時期だったのではないかと思います。
 そして,戦争と戦争に負けた以降とで,学校の教師の言うことが変わってしまい,価値観が180度変わったエピソード(76頁前後)を語ることが多かったのです。こうしたことからも田原さんの言動は,この原体験に強い影響を受けていると思われます。
 こうした原体験を持った人から,戦後の教育行政や教育改革,あるいはマスコミにおける教育言説や現代社会における人々の行動様式を見たとき,目に見えない形ではびこる「無責任」体制が日本を滅ぼしつつあると考えるのは理解できなくはありません。(その無責任さをデジタルで象徴させようとした意図がチラッと見えますが,残念ながら失敗していると思います。)
 
 なぜ人々は,自らの範疇を超えてでも物事の懐疑に正面向かって対峙しようとせず,(定型的な落とし所で)完結してしまいがちなのか。
 「教育」でも「政治」でも「事業」でも「デジタル教科書」でも,どんな事柄においても,その範疇を超えたところに関係し得る重要問題があるやも知れないのに,それを掘り起こそうとしないのはなぜなのか。
 今回の場合は「デジタル教育」なる言葉で新しい教育の可能性が語られているけれども,それが結局は旧態依然の定型的な教育行政(あるいは政治・官僚手法)で進められていく変わらなさになぜ誰も疑問を呈さないのか。
 
 田原さんの問題意識は,こうした事柄に重心があると私は理解します。
 

 「♪だって〜,しようがな〜いじゃない」と思うかどうかは立場にも拠るでしょう。国の仕組みが変わっていない以上,現実を動かすには旧来手法を援用しなければならない事情もあります。
 
 ただ,田原さんがその可能性を認めているように,ネットの在るこの時代においては,新しいコミュニケーションの可能性も生み出し得るはずです。
 「そのことを真剣に取り組むつもりがあるなら,やってみろ!」
 この本は,長い年月,日本という国を見続けてきたジャーナリスト田原総一朗さんからの激励なのでしょう。そのためには,積み残している様々な課題に真正面から取り組むことが大事なのだとアドバイスが添えられている…そう受け止めておくことが大事なのかなと思います。
 そう理解するためには,かなり行間を補って読む必要がある点は,玉に瑕なのですが,それは緊急出版させた出版社にも責任がありますね。ポプラ社さん,もっと丁寧にね。

教育の情報化ビジョン(骨子)の無反省性

 8月も終わりが見えてきました。まだまだ暑い日が続くようで,秋の気配に無頓着でいると,あっという間に冬に突入してしまいそうです。
 2010年8月26日付けで,「教育の情報化ビジョン(骨子)」が文部科学省より公表されました。これまで8回開かれた「学校教育の情報化に関する懇談会」や熟議カケアイなどの議論を踏まえて「取りまとめ」られたものです。
 来年度予算の概算要求直前のこの時期に出されたということからも,このビジョン骨子に基づく予算項目が盛り込まれることがわかります。
 まずは骨子の章立てを見てみることにしましょう。それと合わせて「ビジョン(骨子)のポイント」を比べてみると,疑問点が浮かんでくるかも知れません。

第一章 21 世紀にふさわしい学びと学校の創造
 1.21世紀を生きる子どもたちに求められる力
 2.教育の情報化が果たす役割
第二章 情報活用能力の育成
第三章 学びの場における情報通信技術の活用
 1.デジタル教科書・教材
 2.情報端末・デジタル機器・ネットワーク環境等
第四章 特別支援教育における情報通信技術の活用
第五章 校務の情報化の在り方
第六章 教員への支援の在り方
 1.教員の役割と情報通信技術の活用指導力養成
 2.教員のサポート体制の在り方
第七章 教育の情報化の着実な推進に向けて
 

 骨子本文の章立てと骨子ポイントの構造図は,基本的に対応関係にありますが,力点の置き方に(レイアウト制約の結果かどうかは,この場合置くとして)多少曖昧さを残しています。要するに「骨子」にも関わらず,優先順位が不明瞭なのです。
 まず,ビジョンが「21世紀を生きる子どもたちに求められる力」を育むことをトップ目標に掲げていることは分かります。
 以下,この目標のために必要なことが,演繹的に(場合によっては帰納的に)指摘されたり,整理されたりしていきます。

 トップ目標「21世紀を生きる子どもたちに求められる力」のために,次に必要と考えられたのは「(21世紀にふさわしい学びの創造と)教育の情報化が果たす役割」であるとされます。
 実のところ,この部分がビジョン策定の根拠を提供する要であり,人々を最も納得させなくてはならない部分でもあります。
 「なぜ教育の情報化なのか?」「必要であるとすれば何から順に手を付けていくべきなのか?」その説明にどのような論理を用いているのか,手の内を見せて納得させなくてはなりません。
 ビジョンでは,骨子のポイントが整理しているように,トップ目標「21世紀を生きる子どもたちに求められる力」とは,「知識基盤社会」「グローバル化」の世の中で生きていくための能力のことであり,「わが国の競争力や子どもたちの学力の低下」といった現状に対応しなければならないという捉え方です。
 そして,教育の情報化がそこで役割を担えるとした上で、
「情報活用能力の育成」
「教科指導における情報通信技術の活用」
「校務の情報化」
という三本柱と,それに付け加えて
「特別支援教育における情報通信技術の活用」と
「教員の支援」
が必要だと説明し,
「教育の情報化の着実な推進に向けて」必要な事項を最後にまとめています。

 しかし,この問題の捉え方と立て方は正しいのでしょうか。
 そもそも,この問題の捉え方はこのビジョン特有のものではありません。これまでの教育課程審議や学校教育に関わる議論にもたびたび垣間見られ繰り返されてきた問題の立て方です。そして,残念ながら問題の立て方に関して疑念を呈した議論がほとんど見受けられません。
 こう考えるのは,「教育の情報化ビジョン(骨子)」が,過去先行した取組みを踏まえて,今回はこう改善したという事柄を(含んでいたとしても)明示していないからです。
 目新しい事項が,21世紀に入ったことや他国が先取りした新しい事例,あるいは「デジタル教科書」や「教育クラウド」の可能性では,焼き直しビジョンと言われても文句は返せない。

 私は,ビジョンにおける問題の捉え方を反省的に表現すべきだと思います。
 つまり,旧来の学校教育が子どもたちの能力発揮の足かせとなっている現実について,もっと自覚的に捉えた上で,子どもたちの「知識」と「グローバル活動」を支える基盤としての学校教育を創造する〈ビジョン〉を描く必要があると考えます。
 そうした〈ビジョン〉を描く中に,足かせを解除する重要な手段として「教育の情報化」が主軸として位置付くのだと説明すべきです。

 「21世紀を生きる子どもたちに求められる力」を育むことの「足かせの解除」という捉え方で整理すると,先ほどの
「情報活用能力の育成」
「教科指導における情報通信技術の活用」
「校務の情報化」
「特別支援教育における情報通信技術の活用」
「教員の支援」
「教育の情報化の着実な推進に向けて」
という項目群に対して,考え記述することも変わってくるのではないでしょうか。
 「これこれが可能になったので取り入れたり対応する」こと以前に,「これこれするのを難しくしていた条件や規制を緩和する」方が大事ではないのか。
 私が今回のビジョン骨子に対して「屋上屋を重ねたもの」と感じるのは,反省的な視点が大きく欠けているためです。
 年度内に出されるであろう正式な「教育の情報化ビジョン」では,こうした問題の立て方を脱構築した上で,まったく異なる形で組み上げる必要があると考えます。
 そのような極端な提案が受け入れられないのであれば,少なくとも全ての項目について過去への反省を踏まえた改善案や具体案を含めるべきです。
 (そうしたとき,この議論はもはや日本の公教育自体をどう組み立て直すかというものに変わってしまうことは明白ですが…)

 もっとも現実的には,「教育の情報化ビジョン」は,総務省,経産省との連携を前提とした現況において策定されるので,その作業は今まで以上に難しいことも理解できるところです。
 そのため文書として出てくるものに過大な期待を抱くことが所詮は無茶な話であることも了解すべきかも知れません。
 だとすれば,その策定にかかわる人々の議論が問題になるのですが,果たして,それが私たち国民に伝わり納得できる形で出てくることが無い以上,このビジョンはどこまでいっても国民にとって雲の上のものでしかないかも知れません。