データ処理としてプログラミング教育を考える

6月に行なわれた日本カリキュラム学会に参加して、3月に告示された学習指導要領に関する議論にいろいろ触れてきました。学会の性格上、個別の内容について善し悪しを論じるというよりは、学習指導要領の成立過程や影響について注目して議論が行なわれました。

その中でも、初等教育への「プログラミング教育」導入は、3回の有識者会議(「小学校段階における論理的思考力や創造性、問題解決能力等の育成とプログラミング教育に関する有識者会議」)だけで教科横断的に受け入れを飲み込ませてしまったことなど、行政手続法の精神に鑑みて不適切さが残り、唐突感が否めないという指摘もなされました。

プログラミング教育を2017年3月告示の学習指導要領に盛り込むためにとった手続きの是非について、立場によっては不適切論を一蹴する人たちも居るでしょう。

今次の改訂に盛り込まなければ10年後になってしまう、であるとか。コンピュータ技術に触れて学ぶことは喫緊の課題であるから今回の手続きは相応なものであった、という見解もあると思います。物事には場合によって形式的手続を省略すべきときがあるのも、大人の世界ではよくあることです。

学習指導要領改訂の背景で「子供たちに、情報化やグローバル化など急激な社会的変化の中でも、未来の創り手となるために必要な知識や力を確実に備えることのできる学校教育を実現します。」と謳った以上、プログラミング教育は何が何でも盛り込みたかったのでしょうし、有識者会議を3回(2016年 5/13, 5/19, 6/3)にせざるを得なかったのは、すでに2015年11月から始まっていた各教科等のワーキンググループの議論が、グループによって4〜8回ほど検討を重ねていたため、なるべく早く対応を求めたかったという事情もあったと考えられます。

いずれにしても行政手続的な妥当性については、別途ちゃんとした議論が必要になるでしょう。

一方、プログラミング教育にまつわる議論は、率直に言って、おかしな方向へ転がっています。

どの識者や論者の主張も、理屈として必要性を述べることはできていても、個々の学校で取り組む理由や文脈を作り出すところまで繋げられるよう説得的には論じられていません。(参考リンク

グラフィカルなプログラミングツールやロボット制御の実践は華やかで、その一つ一つの持つ面白さや効果について疑うわけではありません。とはいえ、それを学校の文脈に馴染ませるためには、大文字の必要性を自校の必要性にブレークダウンしなければならないはずで、それに成功している事例は滅多にありません。(大文字のまま受け取って納得し楽しめているのであれば、それはそれで一つの在り方です)

たとえば、小学校段階の「プログラミング教育」を「プログラミング技術習得ではない」「プログラマー育成ではない」と断わらなければならないのは、それを教えられる人がいないという現実を配慮した結果だといえば、理にかなっているように思えます。しかし、そのために「プログラミング的思考」という言葉を作って、情報技術の進展した社会における問題解決のための論理的思考を養うものだとしたところから、議論はねじれを生むだけでした。

有識者会議の議論の取りまとめは、総花的であるため、一方で論理的な記号操作レベルによって一連の意図した処理が行なえることを関知させることをねらい、一方で身近な場面で論理的な思考が役立つことを実感させて自分の生活レベルで生かそうとすることを求めるという、両者の間に大きな飛躍を必要とするものが共存する形になっています。

人工知能や第四次産業が建前であることはよいとして、そこから、全国の様々な市区町村が設置者である小学校という場で、自校がプログラミング教育を積極的に取り組む理由へとつなげるための、その言葉がまるで紡ぎ出されていないのです。

全国に散らばる各地域の立場で想像してみてください。

地域の子供たちが未来の創り手になることに異論はないとしても、そのためにカリキュラム・マネジメントの手間をかけてプログラミング教育を取り入れる内発的動機を抱くことは、それぞれの地域において難しくないでしょうか。

地域に根ざした学校教育という文脈に、情報化やグローバル化の文脈を接合するために「現実直視」や「危機意識」だけを外から持ち込めば、それで事は動くのでしょうか。そこで提示されているのがゲームやロボットを題材にした実践ばかりであったとき、説得力を持ち得るのでしょうか。

何のための「プログラミング教育」であるのか。教師一人ひとりが自身で構築すべき理路のために提供されている言葉や視野は、あまりに少な過ぎます。

Jeannette M. Wing氏は「Computational Thinking」(コンピュテーショナル・シンキング/計算論的思考)という論稿で、プログラミング的思考の元ネタである計算論的思考について「コードをデータとして,データをコードとして解釈すること」と記述しています。

コンピュータプログラミングの世界では、アルゴリズムだけでなく必ずデータ構造の存在を言及するのが通例です。アルゴリズムに関する古典的著作『アート・オブ・コンピュータ・プログラミング』第1巻も情報構造(データ構造)に関して一章割かれていますし、その他多くの教科書がデータ構造の重要性に言及しています。

そもそも学習指導要領が「情報活用能力」の育成を目指してきたこと、高等学校の数学Iでデータ分析の単元が含まれていること等を踏まえれば、学校でデータを扱うことの重要性についてもっと論を展開すべきであることは合点の得やすい話です。

プログラミングとくると「アルゴリズム」を想起しやすいですが、ここで注目すべきは「データ」ではないか。プログラミングをデータ処理の手段として眺め直したところで、プログラミング教育を組み立てていくと、様々な議論が先へ進み出すのではないかと考えています。

データ処理としてのプログラミング教育。

たとえば、従来提示されてきた、ゲームやロボットを題材としたものも、データによって駆動している/されているという視点で捉え直すことは可能です。有識者会議の議論の取りまとめも音楽に関する記述で、音や曲をデータとして捉える視点が含まれていたと読みとることができます。

こうしたデータ的な視点で話を膨らましていきましょう。

人工知能に関する近年の注目は、ビッグデータを前提とした機械学習のブレークスルーにありました。これはプログラミング技術の進歩というよりも、データ処理技術の進歩であり、人工知能デザインに必要なのはプログラミング技術というよりも学習データデザインの技術といってよくなっています。

全国の地域社会にとって、地域の統計データは、利活用によって様々な可能性を生み出す資産だといえます。地域活性化やコミュニティデザインの取組みにおいて、地域の様々な情報をデータ化し、ビジュアライズしていくことは重要な手段となっています。地域を学ぶこと、それは地域のデータを学ぶこと。そして、地域のオープンデータと関わっていくという活動の中でデータ処理を学んでいくようにデザインすることも一つのやり方です。

昨今は収集された個人情報こそがビジネス価値の源泉と言われています。ビジネスにおけるデータ分析やデータ加工の技能は、プログラミング技能を上回って重要なものです。

データを扱う基礎技能は、国語や算数数学における表やグラフ等に対する情報リテラシー学習に始まり、理科の実験データ記録や加工、社会科における統計データ解釈といった主要教科での要素によって養われているわけで、これをさらに他教科の中にも再発見していくことは難しいことではありません。

こうしたデータを処理する手段として、アナログ的な処理から始めつつも、プログラミングによる計算処理へと繋げていくことで、その意義や可能性を学ぶことも盛り込めるのではないでしょうか。アンプラグドからプラグドへの流れも位置づけやすいということです。

これは単なる見せ方の違いだ、という指摘もあり得ます。

そう考えてもよいと思います。

ここまであちこちで披露されているプログラミング教育の実践事例について、私自身は否定をしているつもりはありません。お菓子を使ったプログラミングも試みとしては大いに結構。目標に応じてどのような方法を開発したり選択するかは、当事者や学習者が決めればよいことです。

ただ、プログラミング教育について、なにゆえ、こんなにも議論しにくい状況が生まれているのか。

解説の言葉、「〜ではない」という言葉が飛び交う中で、結局のところプログラミング教育とは何をするのかという「答え探し」が終らない現実。

こういう状況を解きほぐす一つの糸口として「データ」処理から考えるプログラミング教育という語り方を提示してみるのも重要かなと、私は考えています。

日本のプログラミング教育言説の採取 -1

日本の識者がプログラミング教育や教育の情報化について,どのように述べているのか採取していきます。(※必要部分のみを採取しただけなので前後の省略に関しては元資料を参照のこと)

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堀田龍也(2016)「プログラミング教育が目指すもの」,総合教育技術10月号,小学館(「教職ネットマガジン」に再掲)

(人工知能がこれから発展することによって…できるようになるはずです。)「こうしたことが社会の常識となった時代に、それがいったいどんな仕組みでどうやって行われているのかということを、私たちは分からないままでいいのでしょうか。」(堀田龍也2016)

「特に子どもたちには、少なくとも次のようなことを知っておいてもらう必要があります。
・コンピュータはプログラムで動いているということ
・プログラムは誰か人が作っているということ
・コンピュータには、得意なところと、なかなかできないところがあるということ」(堀田龍也2016)

「今回導入される、プログラミング教育は、プログラマー育成をするわけではありませんから。そこで文科省は、この教育を通じて身につける思考を「プログラミング的思考」と名付けました。つまりプログラムを学ぶのではなく、コンピュータを動かす体験を通じて思考方法を学ぶということです。」 (堀田龍也2016)

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山西潤一(2017)「年頭所感  未来の創り手を育てる教育工学研究 (2017年2月)」(日本教育工学会Webサイトに掲載)

「30年前、情報化が進むことで、私達の身の回りには便利なブラックボックスが増え、誰もがボタンを押せば、全て自動でしてくれる便利な道具が増えることを喜んだ。しかし、ブラックボックスでいいのか、そこに新たな問題が生じる。」(山西潤一2017) 

「発達段階に応じて、ブラックボックス化したシステムの中身を考え、どのような仕組みで動いているのか分かることが重要だ。望ましい情報化は一部の専門家のみに任せるのではない。中身がある程度理解できれば、その便利さや危うさも理解できる。そのためには自らシステムを作ってみるのが一番。」(山西潤一2017) 

「プログラミングの経験のない先生方にとっては、コンピュータ言語を覚える、その仕組まで・・という不安がある。しかし全く問題ない。より分かりやすいコンピュータ言語もあるし、日本語で手順が説明できればいいのだ。私の経験から言えば、小学生が1,2時間で理解できる内容だ。」(山西潤一2017) 

(エストニアの教育事情を視察した。)「プログラミングを学ぶための学習ではなく、道具としてコンピュータやロボットを活用しながら、表現力や創造性、論理的思考力を育んでいた。そこには教師主導の伝達主義的教育ではなく、まさしく児童生徒中心の構成的教授法に基づく授業が展開されていた。日本のプログラミング教育もそうありたいものだ。」(山西潤一2017

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美馬のゆり(2016)「プログラミング教育って何? 本当に子どもに必要なの?」(インタビュー記事)

「プログラミング教育とは、プログラムができるようになるということではなく、プログラミングというものの考え方を学び、思考のための道具を身につけることだと考えています。」(美馬のゆり2016)

「コンピュータができたことで生まれたものの考え方に「計算論的思考」というものがあります。ひとことでいうと、あえて自分がコンピュータになったかのようにものごとを考えていくと、いろいろな問題がうまく解ける、という考え方です。」「プログラミング教育というのは、プログラミングを学びながらこのような計算論的思考を身につけるためにあるのだとわたしは考えています。」(美馬のゆり2016)

「世界が急速に変化しているなかで、世の中で起こっている問題の解決の糸口を見つけていかなければならないとき、いろいろな考え方、ものの見方ができることがとても役に立つからです。」(美馬のゆり2016)

美馬のゆり(2016)「料理はプログラミングだ!」(インタビュー記事)

「創造性をどう伸ばしていくか、というところにこそプログラミング教育は注力してほしいと思います。」(美馬のゆり2016)

「必修化するのであれば、教員養成をきちんとやっておかないと大変なことになると思います。準備不足で導入してプログラミング嫌いを増やすことになる前に、教員がプログラミングの本質を授業で伝えられるようなツールや副読本を作り、授業の実践事例を広めていかなくてはいけないでしょう。」(美馬のゆり2016)

「料理って、アルゴリズム(問題を解く手順)そのものなんです。」(美馬のゆり2016)

「どういう手順で、どういう制約のなかで料理をしているのか、自分の頭のなかにあるものを一度言語化してみて、どうやったら効率的に料理ができるようになるか、パズルのように考えてみてはいかがでしょうか。」(美馬のゆり2016)

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岡嶋裕史(2017)「なぜ子どもにプログラミング教育が必要なのか」(インタビュー記事)

「なぜプログラミング教育が必要なのかといえば、これからの社会において仕事の進め方が大きく変わっていくからです。」(岡嶋裕史2017)

「プログラミングの基本的な知識の有無で、リーダーシップや他者とのコミュニケーション能力にも大きな差がついてしまうわけです。」(岡嶋裕史2017)

「いまは世の中のしくみの大きな部分を情報技術がつくっているので、それを知った上で社会に出ていくことは、大きなアドバンテージになると思います。だからこそ、小・中学生のプログラミング教育が注目されているのだと思います。」(岡嶋裕史2017)

「プログラミングは英語と同じように、あくまでツールなんです。理科や社会を勉強するツールとしてプログラミングを利用することで、これまでは実験すらできなかったような分野での試行錯誤が可能になったり、異なる視角からの理解が可能になる。その結果、学習能力全般が向上する側面もあると思います。」(岡嶋裕史2017)

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原田康徳(2016)「子どもだけではなく全ての日本国民にとってプログラミングが重要である、たった1つの理由」(インタビュー記事)

「人間とコンピュータがそれぞれ足りないところを補って共生していくためには、全ての人がコンピュータの良いところとダメなところを知っておく必要があります。また、『コンピュータとは何か』を追究すると、『計算するとはどういうことか』『モノを覚えるとはどういうことか』など、つまり『人間とは何か』が分かってきて面白いです」(原田康徳2016)

「コンピュータは、今の世の中を劇的に変えている最も大きな要因の1つです。人間から仕事を奪っている一方で、その周りには新たな仕事が生まれています。それにもかかわらず、コンピュータとは何なのかを理解するのはなかなか難しい」 (原田康徳2016)

「プログラミングを行うことで、コンピュータの“ワケの分からからなさ”が少しずつ理解できます」(原田康徳2016)

「『コンピュータとは何か』という純粋にコンピュータを教える時間はコンピュータの専門家が年間で2時間ほど担当するだけで十分です。先生たちには、子どもと同じ目線で授業を受けてもらい、そこから各教科にどう役立てていけばよいのかを発見していただきたいですね」(原田康徳2016)

「小学校のプログラミング教育では、コンピュータの深い知識を教える必要はありません。コンピュータ上で起こっている不可思議な現象には、全てちゃんとした理屈があることを、子どもたちに何となく理解してもらえればいいと思います。」(原田康徳2016)

「今の情報化社会は一部のお金持ちとエンジニアが作っているものです。ここに、一般の人が入ってこないと文化として豊かなものになりません。これからの情報化社会を文化的に豊かにするために何ができるのかを、私も、皆さんと一緒になって考えていきたいと思います」(原田康徳2016)

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阿部和広(2017)「プログラミングの本質と学びへの効果」(インタビュー記事)

「プログラミングは目的を考えるとダメになります」(阿部和広2017)

「プログラミング学習で論理的思考力を養えるといった謳い文句を目にすることもありますが、プログラミングを学習している子どもが論理的になるかどうかは現時点では不明です。プログラミングという行為自体は高い論理性を求められますが、プログラミングが論理的思考力を養うかどうかはまだわかっていないんです。」(阿部和広2017)

「小学生の段階からスマホアプリのコードが書けるようになっても有能なプログラマーになれるという保証は一切ないです。むしろ有能なプログラマーに求められる能力は、コンピューテーショナル・シンキングができるかどうかです」(阿部和広2017)

「プログラミング的思考はコンピューテーショナル・シンキングの一部分」(阿部和広2017)

阿部和広(2017)「「プログラミング教育」における教師や大人の役割」(インタビュー記事)

「学校でプログラミングの教育体制を作っていくうえで何より大切なのは、先生自身がプログラミングを実際に体験することです。体制づくりの過程で、まずは先生が主役になる。そのうえで、子どもが主役になる授業展開ができるようにするんです。」(阿部和広2017)

阿部和広(2015)「Scratchプログラミングをなぜ子供たちに伝えるのか」(インタビュー記事)

「プログラミングを学ぶ理由の一つとして、論理的思考力がよく挙げられる。これは、プログラムが論理的である以上、プログラムを正しく書いて動かすためには論理的思考ができないといけないから、結果として身に付くであろうということだ。ただし、この論理的思考力というのは、どちらかというと二次的な結果、副次的な結果として身に付くのだろうと考えている。」(阿部和広2015)

「プログラミング学習においては、間違うこと自体がむしろ積極的に肯定される。間違いを直すこと、つまりデバッグが、大変効果的な学習となる、言い換えれば、試行錯誤しながら目標に近づく態度が身に付く。プログラミングをすることにより、この態度が自然と身に付いて習慣化することこそが、一次的な目的なのだ。」(阿部和広2015)

 

コンピュテーショナル・シンキングについて

今回は「プログラミング教育」「プログラミング的思考」「コンピュテーショナル・シンキング」に遡るお話。

平成29年度告示予定の学習指導要領で,小学校は総則において「児童がプログラミングを体験しながら,コンピュータに意図した処理を行わせるために必要な論理的思考力を身に付けるための学習活動」を各教科等の特質に応じて計画的に実施することが盛り込まれました。

遡ると,中央教育審議会の答申の「情報活用能力とは、世の中の様々な事象を情報とその結び付きとして捉えて把握し、情報及び情報技術を適切かつ効果的に活用して、問題を発見・解決したり自分の考えを形成したりしていくために必要な資質・能力のことである。」(37頁)という記述に対する補足説明で,これには「プログラミング的思考」も含まれると明記されたからです。

さらに遡ると,「小学校段階における論理的思考力や創造性、問題解決能力等の育成とプログラミング教育に関する有識者会議」の「議論の取りまとめ」には,プログラミング的思考に対しての補足説明で「いわゆる「コンピュテーショナル・シンキング」の考え方を踏まえつつ、プログラミングと論理的思考との関係を整理しながら提言された定義である。」と書いてあります。

というわけで,そもそもの出発点である「コンピュテーショナル・シンキング」(computational thinking)って何?ということになるわけです。

今回は定義に関する議論はひとまず置いといて,言葉の出所を見てみたいと思います。

英語版Wikipediaの項目には,1980年頃にシーモア・パパート氏が初めて使ったなどと解説されています。

しかし,「コンピュテーショナル・シンキング」が注目を集めるようになったきっかけはJeannette M. Wing氏が書いたマニフェスト的論文「Computational Thinking」が2006年に掲載されてからだとされています。

このWing氏の英語論文と,日本の「情報処理」誌(情報処理学会)に掲載された日本語翻訳版がインターネットで公開されています。

論文「Computational Thinking」
http://www.cs.cmu.edu/afs/cs/usr/wing/www/publications/Wing06.pdf

翻訳「計算論的思考」
https://www.cs.cmu.edu/afs/cs/usr/wing/www/ct-japanese.pdf

ちなみに「Computational Thinking」の日本語訳は「計算論的思考」。

もしもプログラミング教育が行なわれることになった背景について議論をするのであれば,この論文を一読することは大事なことです。

さて,ここで余計な手出しをするのがりん研究室の悪い癖。

せっかく翻訳していただいた日本語版ですが,柔らかいものしか読めなくなってしまった私には,一読してもすっと内容が入ってこないのです。

[追記:「情報処理」誌のご意見アンケートにも「■翻訳の表現が硬く,この記事が掲載されている意義がつかみとれませんでした.(匿名希望)」とあった…う〜む]

それだけ私が情報処理分野に疎いということなのだと思うのですが,一方で,もっと一般の人が読みやすい文体に直してもよいのではないかと思ったのです。

コンピュテーショナル・シンキングとは,ごくごく一般の人々も持つべき基礎的能力であるとWing氏は主張しています。であれば,一般の人に読んでもらうことを意識した翻訳バージョンがあってもよいのではないかと思いました。

そしてその主張について様々な講演や解説をしているWing氏の動画を拝見したところ,彼女自身はとても明るくて優しい感じの方で,なのにとてもエネルギッシュかつ分かりやすく内容を伝えようとしている姿が印象に残りました。丁寧に説得するような文体の方が,ご本人の雰囲気にも合っているのではないかと思えたのです。

というわけで,諸々の失礼や課題の件はあとで考えるとして,とにかくコンピュテーショナル・シンキングに関する主要論文を読んでもらいやすい形にしよう。学習用として翻訳し直そうと取り組んだのが次のものです。

学習用翻訳「計算論的思考」 
https://ict.edufolder.jp/archives/1278

訳が十分こなれているとは言えませんし,内容に関して誤解している個所もあるかと思います。いろいろフィードバックをいただければと思いますが,とにかくいろんな人に読んでいただきたいので,拙い翻訳を紹介させていただきました。

追記

学習用翻訳「計算論的思考, 10年後」
https://ict.edufolder.jp/archives/1286

小学校プログラミング教育・議論の取りまとめを読む

小学校段階におけるプログラミング教育の在り方について(議論の取りまとめ)

文部科学省サイト

書込みPDF

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文部科学省「小学校段階における論理的思考力や創造性、問題解決能力等の育成とプログラミング教育に関する有識者会議」(平成28年5月13日,5月19日,6月3日)での議論を取りまとめた文書が6月16日に公表されました。

長い会議名に対して,まとめ文書は端的なタイトルです。

事の流れを大雑把に振り返ると,「e-Japan戦略」の頃から「IT人材育成」はずっと唱えられ続けてきており,2013年の「情報通信技術人材に関するロードマップ」で初等中等段階におけるデジタルコンテンツの制作やプログラミング等のカリキュラム開発が言及されました。

その後,「日本再興戦略」「世界最先端IT国家創造宣言」「日本再生実行会議」,そして「産業競争力会議」では4月19日の「初等中等教育からプログラミング教育を必修化します。」という発言が話題にもなって,同日に文部科学省が有識者会議の設置をしました。

事の始まりから「初等中等教育」と言及され,小学校(初等教育段階)と中学・高等学校(中等教育段階)の両方でプログラミング教育を検討することが折り込まれていたといえば,確かにそうです。

また,議論の取りまとめを読むと,教育課程の中にすでに取り組みが存在する中等教育段階のことを考えれば,それへの準備期間である初等教育段階のプログラミング教育の在り方を検討することは,当然の成り行きなのでしょう。

しかし,このような流れでは,小学校段階における「必修化」の是非そのものを検討することは飛び越されています。つまり,小学校での必修化は不要であるとの選択肢は除外されていたわけであり,それが有識者会議における議論の苦しさ,取りまとめ文書のまだるっこしさの一因ではないかとも思います。

その上,取りまとめ文書は,とても読み難いと感じました。

行政関連文書としての独特の言い回しをする必要があることも理解できますが,一部の文章は大仰に表現することを迫られて書いたようにも読めます。

そのため,「プログラミング教育」とか「プログラミング的思考」として捉えなくてもよいものまで,無理にその枠組みに入れようとしている印象を与え,小学校段階での「プログラミング教育」とは,現時点においてまなざしの問題であるかのように思わせてしまう側面もあります。

別の言い方をすれば,この取りまとめ文書の中で,小学校における「プログラミング教育」の成否は,各学校の「カリキュラム・マネジメント」による采配次第であるとされており,それが実現するかどうかは,次期教育課程の出来上がり次第です,期待してます,おわり,という構成になっているということです。

それがどこか対岸を眺めている「まなざし」という印象を生むのかも知れません。

もちろん,取りまとめ文書は,外堀に関しても言及しており,小学校の外部からの働きかけについて様々示唆されているように思います。そういう意味では,すべてを学校任せにせず,私たち自身が,日本という国が持続するための人材育成にもっと関わっていくべきと前向きな解釈をして「プログラミング教育」のムーブメントを推し進めていくのも大事でしょう。

けれども,取りまとめ文書の,特に冒頭部分の一連の文章は,私の読解力の低さがあってか日本語として冗長な部分が多いと感じ,プログラミング教育を語る後半にたどり着くまでにはすっかり疲れてしまいました。普通の人たちは,これくらいあっという間に読み解くものなのでしょうか。

仕方ないので,私なりに添削をしたのが冒頭の「書込みPDF」です。

行政関連文書ではそんな風に書かないというご意見もあろうかと思いますが,誰かに読んで欲しいならば,こんな感じで変更してみてはどうだろうかという私なりの提案です。

その他,思いついたことも少し書込みましたので,ご笑覧ください。何か思いついたら追加して書込んだりしますので,そのときは再ダウンロードを。

2020年代とデジタル教科書とプログラミング教育と…

年度内にまとめる予定の次期学習指導要領と,2020年に向けた様々な動きと相まって,教育と情報に関わる範疇でもいくつか重要な議論や方針が伝えられています。

ここ数ヶ月に限れば「教育の情報化」「情報活用能力育成」「デジタル教科書」「プログラミング教育」といった論点において,次のような動きが伝えられています。

【教育の情報化】
「「2020年代に向けた教育の情報化に関する懇談会」中間取りまとめの公表について」(文部科学省)20160408
「ICT効果に期待9割 PC室更新は6割がタブレット系:2020年代に向けた教育の情報化に関する懇談会<文科省>」(教育家庭新聞)20160411

【情報活用能力育成】
「20160420 教育課程部会 情報ワーキンググループ(第7回)配付資料」(文部科学省) 20160531
「教育の強靭化に向けて(文部科学大臣メッセージ)について(平成28年5月10日)」(文部科学省)20160510

【デジタル教科書】
「「デジタル教科書」の位置付けに関する検討会議」(文部科学省)
「文科省の有識者会議「2020年度からのデジタル教科書導入は各自治体の判断」」(ZDNet)20160603

【プログラミング教育】
「小学校のプログラミング教育必修化 IT技術でなく論理的思考力が大事 文科省有識者会議」(産経ニュース)20160603
「小学校段階における論理的思考力や創造性、問題解決能力等の育成とプログラミング教育に関する有識者会議(第3回)配付資料」(文部科学省)20160603

こうした方針に対して,肯定否定も含めて反応は様々です。

Twitterのような衝動発言も多く含まれるメディア上で散見される反応は,報道の見出しの誤読によって生じているものもあり,誤解に基づいた見解もありそうです。しかし,現時点では正式な議事録や方針に関する資料が公表されていないものもあり,報道や伝聞の情報をもとにするしかありません。

私自身も,この界隈の関係者として議論に関する周辺知識はありますが,国の審議会や懇談会(有識者会議)で具体的に何が話し合われているのか知る術は報道と伝聞以外にありません。

そうした前提条件を念頭に,たとえばデジタル教科書であるとか,プログラミング教育といった注目の話題に関して,有識者会議がまとめたとされる内容には,大きく議論の余地が残されていると私自身は感じます。

「デジタル教科書」なる言葉が使われ出したのは21世紀(2001年以降)に入ってからというのが私の調べです。当初は「教科書のような/教科書に沿ったデジタルの教材」という意味合いで使われた言葉だと推察されます。やがて2005年に指導者用デジタル教科書といった商品が登場し,教科書そのものをデジタル化することのイメージが強まりました。

そこから10年程,様々な出来事を経て,今回の検討会議は,これを正真正銘の「教科書」の観点から扱うとしたら,どう捉えればよいのかということが議論されているのです。

この問題の難しさは,紙の印刷物を中心に考えればよかった時代の法令にあります。日本の学校は,学校教育法の第三十四条で「文部科学大臣の検定を経た教科用図書又は文部科学省が著作の名義を有する教科用図書を使用しなければならない。」と定められており,この条件を満たせる「教科用図書」は,紙の検定教科書だけなのです。デジタル教科書は,これを代替することはできません。

使用義務が課せられている教科書の特権的な位置付けは,当然様々な思惑や課題を引き寄せるわけで,別の言い方をすれば,簡単に中身を変えられる位置付けではないということになります。その代表が「教科用図書検定」であり,これが紙の印刷物を検定対象とする前提である以上,デジタル教科書そのものが「教科用図書」になることはあり得ません。

今回の検討会議は,紙版教科書をそのままデジタル化した「デジタル版教科書」についてはあらためて検定する必要はなのではないかという見解を示したようです。しかし,そこから先のことは明確に伝わってきていませんので,その部分が長期的に見て重要であるがゆえに,短期的にはあえて言及していないのではないかと推察されます。

使用形態の議論は,法令遵守の観点でも名目上は重要ですが,あまり深堀過ぎると決まり事が多くなって窮屈になり,自分たちの手足を縛りかねないので,いまは曖昧のままがよいだろうと思います。

「デジタル教科書」という用語」(教育と情報の歴史研究)
「デジタル教科書の過去,現在,そして明日─提示型デジタル教科書からデジタル版教科書へ─」(原久太郎)

小学校段階でのプログラミング教育に関しては,多くの反応と同じく,時間確保をどうするのか見えないままです。また,プログラミングを身に付けるのではなく,プログラミング的思考を身に付けるんだという方向にグイッと引っ張った感じもあります。これは私も傍聴した第2回目の有識者会議で議論されていたことでした。

「総合的な学習の時間」で取り組んでもらうのをイメージする人達も多いですが,この「時間」が何やっていいのか分からず持て余している枠だというのは遠い過去のもので,いまやどの学校も何かしらに取り組んでいて,むしろ3年先まで予約の取れないレストラン状態といってよい時間です。

報道によれば,取り組む教科や時間は学校側が決定することを提言するようですが,これもそうした事情が分かっているからこそ,現実的には任せるしかないという落とし所でしょう。丸投げといわれればそうかも知れませんが,下手な明言も爆弾投げ込みとなり,無理な話です。

Computational Thinking(コンピュテーショナル・シンキング)を「プログラミング的思考」として何やら定義したようですが,これも現時点では詳細は確認が取れません。ちなみにこの言葉は他にも,「コンピュータ的思考」「計算論的思考」「計算科学者的思考法」「プログラマ的思考」などのような日本語が考えられます。

とにかく,有識者会議での議論やまとめられた文案を確認できない状況で,細かな論点を批判検討しようとすることはフェアではありません。その上,これら有識者会議は,どちらかというと現状を把握あるいは追認する形で,国の対応をどうするか提言する目的のものです。新しいものが飛び出す場でもないのです。

腰を悪くした老人に瞬間的に姿勢を正せと要求するのが難しいように,様々な法令でがんじがらめになっている組織が,明日から新しい事態に理想的な対応をとる組織に生まれ変わることは普通あり得ません。短期的には理想を捨てて,現実路線からのソフトランディング,何を言うかよりは何を言わないかが重要になります。

一般論として,あるいは学術論として,意見表明をして議論を闘わせることは大事なことです。もっと議論は盛り上がるべきと思います。

ただ,議論の精度を上げるために,もっと行政側の情報開示が積極的になされるべきです。

かつてのように情報発信と拡散の手段が限られた時代であれば,非公開という選択肢を含めた制限的(防御的)な情報対応が審議や検討の自由な意見交換を守ることになったのでしょうが,いまは条件が変わっています。そのことは数々の災害や政治の問題を経て,日本人の多くが身にしみて感じていることではないでしょうか。

次代の人々が,この時代を振り返った時に,ちゃんと記録が残されており,どのような意見が表明されてどのように議論が積み重なったのか確認できるようにしておきたいものです。

そのとき,「当時の人々の間ではろくに議論もされず,コンセンサスの無いまま突き進んだ」と書かれないようにしたいと,私は思います。