20181219_Wed

研究室で仕事。

不思議とゆったり過ごした一日だった。4年ゼミ生達がやってきて卒業研究の作業をしたり,3年ゼミ生がやってきて映画を見て過ごしたり。今年も終わりという頃に3年生と4年生が言葉を交わす場面がようやく出てきたりして,なかなか楽しかった。環境改善で研究室がゼミ生の過ごせる空間になっているのはよい傾向だと思う。

3年生が見ていたのは『スラムドッグ$ミリオネア』だった。壁の穴プロジェクトの絡みで『ライフロング・キンダーガーテン』の第4章で触れられていたのもあってのチョイスであった。

以前観たことがあったはずなのだけれども,話のプロットをすっかり忘れてしまっていたので,私もあらためて映画を眺めた。そうだそうだ,スラム出身の青年の半生がクイズ番組を通して描かれるものだった。

残念ながら時間切れで鑑賞中断。ラストはそれぞれ観ることになった。

20181218_Tue

授業と会議と忘年会。

残りの授業回数が少なくなってきたこともあって,少々慌ただしい雰囲気で過ぎていく。

教育方法技術論の授業では学習に関して心理学の知見をいろいろ紹介している。そこでキャロル・S・ドゥエック氏の『マインドセット』(草思社2008/2016)に出てくる「growth mindset」と「fixed mindset」を扱う。

今どきなら「グロース・マインドセット」と「フィクスド・マインドセット」とでもカタカナ言葉経由で英語を直接知ってしまえばいいような時代だが,初めて触れる人には日本語訳が欲しいところ。草思社の『マインドセット』は2006年の原著を翻訳したもので,今西康子氏は「しなやかマインドセット」と「硬直マインドセット」と翻訳している。

ただ,ドゥエック氏の研究は20ないし30年遡るところから始まっていたため,初期の研究成果が日本に伝えられた時点では,マインドセットではなく知能観として届けられていた。

私が初めて目にしたのは『認知心理学者 教育を語る』(北大路書房1993)の中の「学習意欲を高めるために1:「わかる喜び」を求めて」という章だった。そこで小泉令三氏が「増大的知能観」と「固定的知能観」としてドゥエック氏の研究を紹介していた。おそらく「incremental theory of intelligence」と「entity theory of intelligence」という用語の翻訳だと思われる。

マインドセットと知能観はもちろん異なるし,ドゥエック氏がどのように使い分けていたかは明確に調べられていないが,2大傾向に関しては重ねて捉えても問題はなさそうである。ちなみに「増大的知能観」を「成長的知能観」と表記する文献もあったりする。

さらに『ライフロング・キンダーガーテン』を読むと,これまたこれらを組み換えたような訳語が登場する。酒匂寛氏はマインドセット研究に関して「成長型マインドセット」と「固定型マインドセット」と翻訳されたようだ。

[追記20181231]小島健志『つまらくない未来』(ダイヤモンド社)を覗いてみると,小島氏はもっとシンプルに「成長思考」と「固定思考」という訳語を当てていた。邦訳を参照しないのはどうかと思うが,これはこれでいい訳語かもしれない。

growth mindset
(incremental theory of intelligence)
fixed mindset
(entity theory of intelligence)
グロース・マインドセット フィクスド・マインドセット
今西訳 「しなやかマインドセット」 「硬直マインドセット」
小泉訳 (増大的知能観) (固定的知能観)
酒匂訳 「成長型マインドセット」 「固定型マインドセット」
小島氏 「成長思考」 「固定思考」

表にするほどのものでもないが,こうした表記の多様性を見て,自分なりの理解を深める手がかりにするのも面白い。というか,旧い知識をアップデートする必要性があるという一つの教訓としても。

年内最後の会議をして,夜は職場の祝賀会・忘年会だった。

私にとって唯一の忘年会だが,今年は料理も美味しくいただけたし,テーブルをご一緒した方々とも楽しくおしゃべりができたので,よい忘年会となった。まぁ,残りも頑張ろう。

20181217_Mon

センスメイキング』(プレジデント社)を手にした。

実はほぼ同じ主張をしている同じ著者の本『なぜデータ主義は失敗するのか?』(早川書房)を少し読んだことがあった。

簡単に書けば,データサイエンスといった自然科学的な手法に圧倒されるばかりでなく,人文社会科学的なセンスメイキングもお忘れなくという主張である。もう少し踏み込んで書けば,センスメイキングの方がより重要だということだ。

実はどちらの本にも,プラグマティズムの創始者として知られるチャールズ・S・パースが整理した「アブダクション abduction」(仮説形成)のことが触れられている。これは推論方法の一種で,よく知られている「帰納法」(induction)と「演繹法」(deduction)に並ぶ第3の方法とされている。

もともとは近代科学の方法を探究していたベーコンによって,単純枚挙による帰納法ではない「真なる帰納法」として模索されていた手法であり,その日本語訳が想起させるように,問題に対する仮説を形成した上でそれを検証するというものだ。単なる帰納法とも演繹法とも違う。

それで宿題を思い出した。

以前,ブログに「プログラミング的思考と論理的思考」を書いた。

そこで「問題解決に際して,帰納的思考を展開するのか,演繹的思考を展開するのか。そういう観点からプログラミング的思考と論理的思考を位置づけて論じること」もできるかも知れないと書いて,そのままにしていたが,ここに「アブダクション」(仮説形成)が登場する展開になるであろうことは容易に想像がつく。

端的に書けば,プログラミング的思考とはアブダクション(仮説形成)による思考のことである。

「プログラミング的思考」なる言葉を持ち出した人々が意図しているのは,プログラミング的思考の育成によってアブダクションにもとづく思考方法や手法が育成されることだといえる。

ところが,そのことを明確に意識して論じたものがほとんどないため,プログラミング的思考を論理的思考として検討する際に,帰納法的に捉えたり,演繹法的に捉えたりする視点が混在してしまい,議論が迷走してしまうのである。

たとえば,プログラミングにおける「順次」「分岐」「反復」という要素について,これらを用いてアルゴリズムを考えることが重要であるといった理解は,プログラミング的思考の演繹的な部分だけを見ているだけに過ぎない。

また,意図する動きを実現する方法に[いくつかの模範解答があると考えて、それらから記号や組み合わせを学ぶといった捉え方も帰納的な部分を試みているに過ぎない。]正解はないのだからどんな命令や記号でもよい,といった多様な方法を許容するという考え方は,逆に単純枚挙な(帰納的)態度が行き過ぎたものにも似たように捉えられる。コンピュータプログラミングには,計算処理コストなどの現実的な制約が存在する。(訂正:当初書いた内容だと、むしろ「真なる帰納法」に」近いものになってしまうことに気づく。アブダクションは発見の方法であり、仮説をどんどん形成することにこそ意味があるのだから。)

ここに第3の方法である「仮説形成」手法がプログラミング的思考を指向する際の基調になり得る余地が見出される。

もともと,教育学でお馴染みのジョン・デューイによる問題解決学習に関する言説を見れば,プラグマティズムの考え方があり,よってアブダクションの考え方も自ずと反映されている。問題解決としてのプログラミング的思考にそれを重ね合わせる考え方もそれほど目新しいものではないだろう。

しかし,いまだ「プログラミング的思考」にまつわる論説や議論において,明確な特性を示しえていない状態が続いているため,プログラミング的思考を「どのように扱うのが妥当であるか」の基準を個々の教員に持たせられないでいる。

ここではっきりと「プログラミング的思考とはアブダクションによる思考である」と措定し,問題解決の文脈で展開されてきた仮説形成と検証の蓄積を土台にしてコンピュータや情報通信技術の課題に取り組んだ方が,同じ悩むとしてももっと明確に悩めるのではないかと思う。

20181216_Sun

所属している児童学科で運動会。

学年を超えて学生たちが集まって対抗戦を行った。私たち教員も招待を受け,施設管理上の付添が必要ということもあったので分担しながら参加した。

基本的には観覧するだけだったが,学年対抗の際に1年生の人数が足りないということもあり,リレー競走で走ることになった。登板する覚悟はしていたが,日頃の運動不足と身体的加齢は不安材料であり,内心は冷や汗状態。

急激な運動が発生することを身体に覚悟させるために,短時間でほぐせるだけほぐして,いざ競技へ。アンカーから3番目の走者として,バトンを受け取り全力疾走した。前方の学生に追いつこうと必至に走ったが,そりゃ若さにゃ勝てんということで,順位を維持するので精一杯。

さっそく身体のあちこちが痛くなった日曜。

20181214_Fri

専門ゼミナールでは文献講読。

ライフロング・キンダーガーテン』の第4章「仲間」を読んだ。全体の中でも重要な部分で,空間デザインや学習コミュニティといったキーワードが出てくる。

グラフィカルなプログラミング環境として知られるScratchの誕生秘話というか,何を目指して開発されていたのかが読めるという意味でも本章は興味深い。

168頁で「多くの人はスクラッチをプログラミング言語だと考えています。もちろん,間違いではありません。しかし,スクラッチに取り組んでいる私たちは,それ以上のものだと見なしています。」と書いており,「若者がお互いに,創造し,共有し,学び合う,新しいタイプのオンライン学習コミュニティを創造することでした。」と書いていることはもっと広く知られるべき箇所だろう。他にもスクラッチの名前の由来なども書かれている。

学習コミュニティのオープン性について,たとえば他の人の作品をもとに何かを作るリミックスという仕組みに関して,従前の学校だとそれは不正行為と見なされていることではあるが,スクラッチのコミュニティではむしろリミックスされることは誇らしいことだと思える文化を醸成しようとしていることなども述べられている。

発表担当学生が一番気に入ったというのが「気遣いの文化」という節であった。

学生が印象に残ったとした部分は…あるスクラッチユーザー(スクラッチャー)の子が「スクラッチコミュニティの良いメンバーであるとはどういうことか」という質問に対して返した答えが「最も大切なことは,コメントで『意地悪に振る舞わないこと』」だった点(184頁)。

さらに,スクラッチのモデレーターがコメントやプロジェクトを削除しなければならないときに説明する内容として「スクラッチャーは,他のスクラッチャーが自分は歓迎されていないんだと感じさせない限り,自分の宗教的信念,意見,そして哲学を,自由に表現することができます」という部分(190頁)。この「歓迎されていないんだと感じさせない」という箇所が特に関心を引いたようだ。

またこの章では「教え方」について,良いメンターが「触媒」「コンサルタント」「媒介者」「コラボレーター」といった役割の間を行ったり来たりしていることが書かれていたり,仲間がいるだけでも十分ではなく,「専門家」を必要とする場合もあることなども指摘されている。

ここで論じられている学習コミュニティにおける気遣い文化を考えるとき,日本文化の角度から見るとまた違う課題もありそうな気もするが,その点についてはまた機会をみつけて考えてみたい。

残業はWindowsに泣かされる。

たまに使おうとするせいだとわかってはいるが,いざというときにまともに動いてくれないのが困る。