20181213_Thu

保育原理は保育士について。

あらためて保育士とはどのような存在か。国家資格化した経緯などから始めて,求められる倫理観や専門性について確認した。

保育士という国家資格は,たとえば「国家試験を受けない国家資格」とか「独立法令がない国家資格」とか,他に比べて残された課題の多い状態にあり,その社会的地位を向上するためにしなければならないことは山ほどありそうだが,実現には時間がかかりそうである。

授業回数も残りがわずかになってしまい,教科書の残りの部分をどうやって消化しようかと悩みが始まる時期。

卒業研究は,お尻叩きモードの時期。

ゼミ生には研究室を開放しているので,授業以外の時間帯は4年生達と過ごす。黙々と作業をするときもあれば,雑談したり,話し込んだり。こういう機会でもないと学生たちとゆっくり話すこともないので,これはこれで良いことだと思うし,研究室環境を改善した甲斐もあるというもの。

とはいえ,やはり毎度の反省。もっと早くから取り組んでくれていたら…と思うことも多い。本人たちも取り組みが佳境に入ったこともあって「もう少し早くから取り組んでいたら…」と思うところは同じ様子。次の学年は早め早めを促そう。

20181212_Wed

下手なくせに翻訳作業がしたくなることがある。

いわゆる「ハードファン」をちょっと味わいたい衝動に駆られるから。翻訳作業は,機械的に訳すだけで終わらない奥深さがあり,その部分を考えあぐねる苦労や辛さを乗り越え,膝を叩けるくらいの快訳がひねり出せれば,その達成感で楽しさを味わえる。

Micro:bit教育財団Webサイトで翻訳のお手伝いができそうだと風の噂に聞いたので,久し振りに翻訳ボランティアをしてみた。Crowdinという翻訳ツールサイトでmicro:bitサイト翻訳プロジェクトが進行しているので,Japaneseに参加申請して承認された。

参照されやすい部分は,先に作業してくださっている翻訳ボランティアの方々がすでに翻訳作業を終えてくださっているので,私はとあるスライド部分を中心に翻訳。あとは残された未翻訳部分を隙間時間を見つけながら翻訳していこうかと思う。

とはいえ,micro:bitサイトは外部サイトへのリンクも豊富なため,すべての英語情報を日本語翻訳することは不可能。これからはグローバルな交流活動も当たり前の時代となると,英語Webサイトに対する抵抗感を英語のままでも少なくするような意識醸成が必要かなと思った。

20181211_Tue

前日,2018年12月10日は「IT誕生50周年」とのこと。

1968年12月9日(米国時間)に行なわれた歴史的なデモンストレーションから50年であり,1993年にインターネットの商用化が本格化してから25年というタイミングだから。

これを記念して,インターネット商用化25周年&「The Demo」50周年記念シンポジウム「IT25・50 〜本当に世界を変えたいと思っている君たちへ〜」が開催され,アラン・ケイ氏の基調講演とディスカッション部分がネット配信された。

アラン・ケイ氏は英国ロンドンからのビデオ会議による講演で,その中継映像を各地の会場で視聴したり,ネット配信で見ることができた。50年前にダグラス・エンゲルバート氏によって行なわれた伝説的デモンストレーション「The Demo」の会場に居合わせたというアラン・ケイ氏の話は興味深かった。

どうしてもマウスを発明した人物として紹介されてしまうダグラス・エンゲルバート氏だが,むしろ,人間に寄り添った総合的な情報システムを構想してデモンストレーションした人物であることが知られるべきだというのがアラン・ケイ氏の主張だった。

また,読むべき論文として「Augmenting Human Intellect: A Conceptual Framework」 – 1962 (AUGMENT,3906,) – Doug Engelbart Institute も紹介されていた。(ちなみに服部桂氏は今回も『パソコン創世「第3の神話」』をお勧めしていた。)

ディスカッションは,それぞれの参加者の問題意識のもとで発言が展開し,途中,アラン・ケイ氏のビジョンにインスパイアされてできたDynamiclandという実験空間についての紹介があったのは面白かったが,なんだか歴史を伝えきれていないという湿っぽい雰囲気になっていた。

歴史を重視している本研究室としても,今回のように25年や50年を振り返って歴史に触れ,そこに忘れてきた魅力的なアイデアを共有するという試みはとても大事だと考えている。

唯一気をつけなければならないなと思うことは,今回のようなテーマの関係者が特別なコミュニティに閉じてしまっていて,それはそれで歴史を共有してきた戦友達だから仕方ないけれど,そういう人たちの発信する物語を周りの人間がどうやって当事者意識を持って関わり受け止めるか,そこがうまくできるといいなということである。

まだまだ知らないことが多いので,こちらがひたすら歴史を勉強…という感じ。

20181210_Mon

Oculus GoのYouTube公式アプリが11月に出た。

アプリ名「YouTube VR」からも分かるように,Oculus GoならではのVR(バーチャルリアリティ)動画の再生に対応したもの。従来の2D(平面)動画も大スクリーンで視聴するかのごとく再生できる。

VRといっても実写動画の場合,映像視野を180度や360度角で記録したものと,映像に奥行きを持たせた3D(立体)で記録したもの。あるいは,それらをミックスしたものがある。CG動画の場合だとリアルタイムで映像を生成することも可能になるのでさらにバリエーションが増える。

研究室では以前から360度撮影カメラに関心を寄せてきた。

360度撮影カメラとしてはInsta360THETAという2大ブランドがあって,そこから他の機種に手を広げるというのが今どき。

そうして手を広げる中の一つにKANDAO社のQooCamというカメラがある。このカメラは360度撮影カメラとしてだけでなく,変形させると180度視野の3D立体撮影が可能になるカメラとして特徴的だ。研究室もお安く入手してあった。

というわけで3D動画を撮影してYouTubeにアップロードする実験。

専用アプリでFacebookやYouTubeへ簡単にシェアできる機能があるように見えたが,残念ながら現段階では期待通りに機能してくれない。まだあれこれ実装途中。

QooCamアプリで3D立体動画を撮影したら,まずはカメラからアプリに動画を転送し,共有機能でFacebookに3Dビデオとしてシェアする選択をする。ただし,アップロードが行なわれるわけではなく,標準の写真アプリに3Dビデオ加工されて保存されるだけ。これをFacebookアプリでアップロードする。

ところが,Facebookアプリは3Dビデオのアップロードをまだサポートしていない。これをパソコンなどに転送して,YouTubeにアップロードしようかと思うと,今度はYouTubeアップロードにあったはずの3Dチェックボックス機能が「サポートは終了しました。」という状態。

そこでヘルプ「3D動画のアップロード」に書いてあるように,「Spatial Media Metadata Injector」というソフトを用いて3D動画であることを認識させるタグを埋込む作業をすることになった。

これで保存し直したものをYouTubeでアップロードしたところ,無事に3D動画として登録された。Googleはこのタイプの動画を「VR180」と呼んでいて,対応カメラもいくつか出ている。また,こうしたVR動画を視聴するには,スマートフォンとVRグラス/ゴーグルといったものを組み合わせるか,Oculus Goのようなデバイスを使うことになる。

VR動画もあくまで映像撮影方式の一選択肢でしかないので,何でもVRにすればよろしいわけでもない。教材作成に有効そうに思えても,向いているものもあれば向いてないものもあるだろう。そういう意味では,もっと簡単に扱えるように撮影や視聴フローが改善されていくことが大事なのだと思う。

20181207_Fri

専門ゼミナール。

ライフロング・キンダーガーテン』を講読中。私のゼミの学生だからといって必ずしもコンピュータに詳しいわけではないため,Scratch等のテクノロジーやプログラミングの話への敷居は低くないものの,それぞれ頑張って担当部分をまとめてくれている。

先回,第2章「プロジェクト(Projects)」の発表者は,「考える玩具」ではなく「考えさせる玩具」を…という部分に関連してクリエイティブ・ラーニング・スパイラルが興味深いと語った。ただ,「流暢に表現できる能力」という節部分(92頁)がよく分からなかったというので,それをみんなで議論して読み解いてみた。

たぶん文献の該当部分がプログラミングやコーディングの例をベースに記述されていることが,難しさを生んでいたのかも知れない。たとえば「コーディングには基本技術と表現力の両方が必要だ」という記述やそれに続く文章を読むと,「流暢さ」が何を指し示したいのか分かるようにはなっているはずだが,たぶん先制パンチを受けて確信が持てなくなっているのだと思う。

ゼミ生それぞれの得意とする物事に置き換えて考えれば,流暢さに続く「思考力」「声」そして「アイデンティティ」についてもなんとなく見えてくる。そうしたものを発揮するにもプロジェクトは重要なのだと考えられる。

今回は第3章「情熱(Passion)」について読んだ。

いろいろ興味深いキーワードが登場する章なのだが,先回と同じように印象的なところはどこだったか聴くと,「低い床」「高い天井」そして「広い壁」という喩えがあがった(118頁)。それから,「ハードファン(Hard Fun)」について触れたところの,教師や出版社の多くは子どもたちが「物事が簡単であること」を望んでいると考えて学びをより簡単にしようとしている(128-129頁)…という部分も印象に残ったらしい。

「情熱」という日本語だと,どうしても燃え上がるほど熱狂している様を想像してしまいがちだけれども,今回の章を読んで,それぞれが思い入れのある事柄をや互いの様子を共有し合って,他人からすると凄いことなのにどうやら本人は知らないうちに苦もなく続けていたり,取り組んでいることもPassionにあたることが見えてきた。

Passionを意識すべきかどうかは,もしかしたら文化的なものもあって,日本だと自覚しない方がむしろよかったりするのではないかとも思える。もちろん,自覚するメタ認知を働かせて,よい方向に調整できればよいとも考えられるが,日本だと気恥ずかしさがたってしまう可能性もあって,素直なメタ認知が発動しなくなってしまうかも知れない。

議論はそこまでいかなかったけれども,深堀すると面白いのかも知れない。