謹賀新年2018

あけましておめでとうございます。

旧年中は大変お世話になりました。
りん研究室は蔵書の見える化作業をしながら、資料の本格的な整理に取り組んでいます。新しい年は、そうした資料を少しでも外へ出せる形に変えていく作業を進めたいです。

本年も、教育と情報の歴史研究と教育ICTの最新動向といった、過去・現在・未来を見通す試みを続けていきます。どうぞよろしくお願いいたします。

徳島文理大学 林向達

360度カメラで授業撮影

以前よりは少なくなりましたが、公開授業にお邪魔することがあります。その時、授業の写真撮影をすること事があります。

授業の撮影は、学校や機会毎に条件が異なるため確認する必要があります。個人情報に関わる配慮をすることが求められるので、外部公開に条件がつくのが基本です。

助言のお仕事で授業参観するときは、講演で使う目的のために特別に撮影をお許しいただくこともありますし、そうでない場合も外部に公開しないことを条件に備忘録として撮影させていただくこともあります。あちこちの授業を拝見していると、記憶が混乱してしまうので、やはり撮影させていただけると助かります。

撮影で使う機材は、いまやすっかりスマートフォンがメインになりました。もちろん全体としてはデジカメを使われる方もたくさんいらっしゃいますが、私の場合は、講演用スライドに写真を利用するときにスマホだと作業しやすいこともあって、すっかりスマホ派です。写真管理もその方がやりやすいこともあります。

以前は、スマホだとシャッター音が消せず、授業に迷惑をかけやすかったですが、最近は消音アプリの利用やiPhoneだとLivePhoto機能用の小さな音にできるようになり、だいぶ利用しやすくなったことも理由です。

今年に入ってからは、360度カメラを使って撮影をするようにもなりました。

今のところ360度カメラ撮影は、純粋に記録用としての利用になります。先に書いたように備忘用としての撮影には、なるべく当日の授業の様子や雰囲気が甦るような写真が撮れると有難いわけで、その目的に360度カメラは向いてるからです。

まだ撮影のコツを掴み切れているわけではありませんが、板書や児童生徒の姿などを同時に抑えられるポジションで撮影できると、教室の後ろから普通に撮影する写真とはまったく違う構図の興味深い写真が残せます。

カメラ本体の形状や撮影するときの撮影者の動作が、これまでのカメラ撮影と異なるので、わりと不思議な視線を受けます。その視線も撮影されていたりするので、それはそれで面白いです。まだ見慣れない撮影スタイルなので、児童生徒や先生方も構えない自然な雰囲気で写ってくれます。たぶん、ある人達にはウルトラマンに変身しようとしているように見えるかも知れません。

すでにVRを取り入れる試みの授業では360度カメラも登場していますので、徐々に珍しいものではなくなっていくと思います。画質の良さを求めるとまだまだ高価ですが、それも数年で手に入りやすくなる価格帯に降りてくるはずです。

問題は閲覧する方法がまだまだ柔軟ではないので、それがもっと進化して扱いやすくなるといいかなと思います。

Mind your own business

海外と日本の学校教育を比較することは,日本の学校教育を見直す機会や視点を与えてくれます。

たとえば批判的な見直しの中には,日本の学校教育が強く「一斉授業」型に傾倒していることを批判するものもあります。海外の学校で展開している個別的・協働的な学習活動の様子が対照的に紹介されるのです。

最近,私自身とある洋書の翻訳に携わりましたが,工業時代の時間ベースの教育システムから,情報時代は到達ベースの学習を促進させるシステムへとパラダイム転換すべきであることが強く主張されたものでした。

しかし,海外の事例を参照して日本の学校教育を批判的に見る試みには,いつも文化的な違いが乗り越えられない課題として立ちはだかります。

明治・大正時代の教育改革における「教育権」に対する理解が日米で異なっていることから始まって,戦後における「民主主義」への理解の土台も国家中心であったこと等が,今日の日本の学校教育を縛り続けて離さない現実があります。徳久恭子『日本型教育システムの誕生』で示されているように,教育権は「教権」として国家のもとにある教員の権利として認識され,国民の権利に優先するのが日本型なのです。

国家のもとでブラックな状況に置かれた教員が,それでも国民を強化する存在として責務を全うするために,一斉授業という方式を歓迎し,世界的にも注目されている授業研究文化の中で研ぎ澄ましていったのは,当然の流れだったのだろうと思います。

書店の本棚を眺めていたら,面白い本を見つけました。

『アメリカの教室に入ってみた: 貧困地区の公立学校から超インクルーシブ教育まで』(ひとなる書房)
https://www.amazon.co.jp/dp/4894642425

タイトルに惹かれて手に取ると,読みやすい文章でアメリカの学校の様子がルポされています。それとともに,そこで感じる日米の違いについてインクルーシブ教育を中心に見聞きしたこと考えたことを真摯に綴っているのです。つまりインクルーシブ教育も日米で捉え方が異なっているし,日本でインクルーシブ教育に取り組むことの難しさがあるようです。

その本に書かれている日米の違いを象徴する言葉が「Mind your own business」です。この本での翻訳は「自分のことをちゃんとしなさい」です。書かれたエピソードは本を読んで楽しんでいただきたいですが,要するに著者がアメリカの学校で目にしたのは,他の子が違うことをしていたとしても,わざわざ干渉して構わないことを先生が子供たちに徹底していたという光景です。

著者はこの一見「利己的」に見える対応に違和感を示しつつ,一定の理解もできると語ります。その悩ましさを率直に綴りながらインクルーシブ教育の可能性を模索する興味深い本です。

その本を読んでいる,ちょうど同じタイミングで徳島にお客様。学校教育の様子を話していた文脈で,私がハッキリ言う前にお客様の方から「Mind your own business」という言葉が飛び出しました。

その方は中高生のときに「Mind your own business」を英語の授業で「私のことはほっといて」という翻訳で学んだといい,英文と日本語の対応の違いを不思議に思ったのが印象的であったとのこと。それ以来,ずっと心に残っている言葉になっているそうです。

日米に限らず,国の文化の違いは今後も残り続けると思います。だからこそ,相手の国の文化的な作法を知って対応できるようになることは大事なことかなと思います。

日本人が完全に「Mind your own business」姿勢へと変わることはあり得ません。ただ,ネットの社会になって人間同士の関わり方も不用意に近くなる場面が増えているとしたら,あえて「Mind your own business」の姿勢を前面に出していくことも必要になるのかなと考えたりします。

(追記)

先日公開されたTechCrunchの記事(「AltSchoolは子供たちの学習の変革を目指す、しかしそこで学ぶ子供たちの将来に対する懸念が浮上」)も、国によって教育に取り組む文化的な背景や姿勢が違い、現状をどのように認識してどのようなバランスに向かってアプローチするか、それぞれの土壌で考えなければならないことを考えさせるものでした。

授業でのICT活用を掴まえる

今年もいくつか講演依頼をいただきました。お声掛けいただきありがとうございました。

ただ,今年の講演は私にとって辛いものでした。ご存知のように次期学習指導要領の告示がなされ,移行期間のための伝言ゲームが始まるタイミングだったからです。

私は国の施策を代弁するような仕事を「大変」不得意とする人間なので,そういうご依頼にはどうやって自分の話をそちらに寄せるべきか悩み続けて苦労するからです。

今年,いろいろ悩んで収束していった話が「つなぐICT」でした。

ただICTの話の前に,少し巻き戻したところの「学習」について話を共有するところから始めたいと思います。私たちが新しい「学習内容」を学ぶ場面をイメージ化するとこんな感じに描けます。

学習の図

この図は,何かしらすでに頭の中に知識「既有知識」を持っている私たちが新しい「学習内容」と出会って学ぶ様を描いているのですが,既有知識と学習内容が結びついて自分の知識になることは,そう容易なことではありません。たとえば今まで縁のなかった世界の事柄を学ぶ難しさを考えると分かると思います。

そこで,既有知識と学習内容を何かしら橋渡しをするものが必要になります。

橋渡しをするものを心理学の世界では「先行オーガナイザー」と呼んでいて,新たな学習内容に関する枠組みとなるもの(ヒントや例え話も含む)を先に示しておくことで,学習内容を既有知識と結びつけた理解が進むとされています。こういうものを「有意味受容学習」と呼びます。

佐伯胖氏が『「わかる」ということの意味』(岩波書店)という本で「「わかる」ということは、実は「わかっていること同士が結びつく」ということにほかならない、ということです。」(新版153頁)と書いているように「知識の関連付け」は学習の重要要素であるといえます。

「授業でどんなICT活用をすればよいか教えてください」

という講演依頼をいただくと,依頼をいただいた側としては,どれぐらいのレベルの話を期待されているのだろうかと悩みます。

タブレット端末機能の操作方法や具体的なアプリの紹介を期待されているとしたら,頼み方としては,ご利用されている環境の詳細情報を教えていただかないと難しいですし,お話する直前にでも実機を用意していただいて触らせていただきたいと思います。

他校の事例を聞きたいというご依頼であれば,これまで訪問したことのある学校のお話を見せられる写真とともにお話しするということになりますが,その場合でも,環境条件を教えていただいたり,どんな授業科目で使いたいのかを教えていただかないと辛いなぁと思います。

それで悩むのが,もう嫌なので(コラコラ),私が先生方と一緒に授業づくりを練らせていただく場合に,どんな枠組みで眺めているのかをお話することにしました。それが「つなぐICT」です。

つなぐICT

「つなぐICT」をあらためてごちゃごちゃと図にしたのがこれです。

ICTは「何かと何かを繋ぐ役割を担えるもの」と考え授業を捉えると,授業の中でICTが活用できそうな箇所が上図のようなところとして浮かび上がってくるというイメージです。

もちろんICTが使えそうだというだけで,授業の目標に応じて使わないことを選択する場合もありますし,このイメージ以外の箇所にハマる可能性もあります。図はあくまでも一つのイメージです。

先行授業は,シンプルな知識習得の授業をイメージしたものです。「有意味受容学習」が起こること前提としたものです。

後継授業は,協働学習なんかが含まれるちょっと賑やかな授業です。つまりアクティブ・ラーニング的な授業ということになるでしょうか。「有意味発見学習」が起こる授業といえそうです。

後継授業の学習課題に取り組む中で,それぞれの既有知識や調べ活動などで持ち込んだ暫定知識を突き合わせたり擦り合わせたりすることをしながら,それらと学習課題を橋渡しする学習内容を発見すること。それが全体を関連付けるという理解に至る学習過程ではないか。そんな仮定を込めた図です。

こうした何かと何かを「つなぐ」ICTによって,最終的には「個に返していく」ことが大事。

お話は,こう締めくくられます。

「つなぐICT」の図に描かれているジェリービーン…じゃなかったICTの活用どころに,どんなICT機器をどんな方法で用いることができるのか。いろんな条件を想定しながら考えて当てはめていく作業をワークショップにするのも面白いかも知れません。

文部科学省「学校におけるICT環境整備の在り方に関する有識者会議」の効果的なICT活用検討チームによる報告資料は,「教育用コンピュータでできること」と題して1人1台端末があったら次のようなことができると項目を挙げています。

「個別のドリル学習」「試行錯誤する」「写真撮影する」「念入りに見る」「録音・録画と再確認」「調べる」「分析する」「考える」「見せる」「共有・協働する」

残念ながら項目の水準や解説文のばらつきが気になる代物で,正直なところ,そのまま参考にするのはお勧めしません。むしろ,この項目群をそれぞの自治体や学校で再構築してみることが,ICT活用を考えるよい練習になると思います。

学校の授業におけるICT活用を掴まえるために,それぞれが自分なりの枠組みを構築し,それを突き合わせて議論していくことが大事になると思います。

フローチャートよ、もう一度?

せっかくの連休なので大学図書館で過ごしました。県内の他大学と自分の大学の2つ。短縮開館ですが,落ち着いた雰囲気で資料漁りができました。

1970年前後の頃の文献資料を拾い続けています。過去の言説を掘り続けていると,確かに歴史は繰り返しているという部分がないわけではありませんが,まったく放ったらかして引き受けもしないで今日に至っている事柄も少なくありません。そのようなものを整理して光を当てていければと思いますが,それはまたいずれ形にしたいと思います。

1970年代初頭の文献を眺めていて気づくのは「フローチャート」満載だということ。

フローチャートといえば,今日ではプログラミング体験・学習の文脈で学習活動に取り入れるかどうかという注目のされ方をしているものです。

10月に行なわれた日本教育メディア学会大会では,地元企画として教科学習におけるプログラミング教育の公開授業が催され,振り返りの議論が行なわれていました。小学6年生の算数「形が同じ図形」でしたが,そこで図形の拡大図・縮図・合同な図形を分類する手続きを表現する手段としてフローチャートが用いられていました。

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 この公開授業に噛みついたのは私ですが(毎度すみません…),それは算数という教科の見方・考え方とプログラミング的思考あるいはプログラミング体験要素の組み合わせ方やバランスについて,授業者の先生がどういう思慮・苦慮のもとで今回の授業の形に至ったのかを質問したものでした。

 この議論を中途半端にご紹介するのは誤解を招く可能性もありますので,また機会を改めて詳述するつもりです。ただ,(写真に表記されたような)フローチャートづくりが教科学習の中でのプログラミング体験であると短絡的に理解することは,現時点では問題が多く残されてしまうと感じます。

 そういう意味で,この夏に小学館から刊行された『プログラミング教育導入の前に知っておきたい思考のアイディア』も誤解を招くムックであると言わざるを得ません。

 基本的にこのムックが問題視される大きな原因は表紙と解説にあります。

 書名が表している通り,ムックの内容(特に実践アイデアパート)は「思考のアイデア」,つまり裏表紙に紹介されている「思考ツール」の系統に属する内容を扱ったものですが,表紙はプログラミング教育の関連の本であることを訴求し,研究者の解説パートはプログラミング的思考を論じています。

 解説パートと実践アイデアパートを接合するのは,「プログラミング的思考の要素」として紹介された「順序(順次)」「場合分け(分岐)」「繰り返し(反復)」であり,これを各教科の学習活動で行なえるようなアイデアを紹介しているという構造になっています。

 それらの要素をもっともよく見える化するものが「フローチャート」であり,このムックの実践アイデアにもたくさん用いられているというわけです。

 しかし,このムックにはフローチャートそのものをどう扱うべきかはほとんど論じられていません。もし短絡的な理解をする読者がいれば,フローチャートをつくることで教科の中でプログラミング的思考を扱ったことになるのだと読みとるかも知れません。

 このムックはそもそも「思考ツール」を扱ったシリーズの一冊ですから,フローチャートを始めとした思考ツールに関する議論は別のムックや書籍を参照してね…という割り切りの位置付けにあるのでしょう。表紙のデザインはともかく,これは論理的思考に関する実践の「ジャスト・アイデア」(たとえばのちょっとした提案)というムックなのです。

 フローチャートがプログラミング的思考と関係ないということではありません。とはいえ,そう単純な話ではないということを勘案してくれる読者がどれほどいるのか。そのことを思うと,このムックに関しては批判的な検討を加えながら広く議論されていくべきだと思われます。

1970年代の文献資料にフローチャートが満載であった理由ですが,当時は教育工学という学問が助走期を経て本格的に立ち上りつつあった時代であり,「授業のシステム化」「学習指導の最適化」といった考え方について大いに議論が盛り上がっていたのでした。

かつての授業研究や開発の分野はその手法においてプログラミングを強く意識していたのです。よい授業を図式化するということも真剣に議論され,フローチャートはその手段の一つだったわけです。その名残は,一部地域の授業指導案の書き方にも残っています。授業の流れをフローチャートで表現する地域や学校があるのです

学校全体の教育方針や研究方針を図化する中でもフローチャートの利用は珍しくはありませんが,今後カリキュラム・マネジメントの取り組みもますます議論されていくことを考えると,フローチャート満載時代が再びやって来る?のでしょうか。