人生と電子情報

 ドラマ「リッチマン、プアウーマン」には「パーソナルファイル」という物語上の開発物が登場します。個人情報を一括管理するシステムとして新興開発会社がイノベーションを起こそうと取り組もうとするものです。
 現実世界は「マイナンバー」という社会番号を付けるか付けないかだけで大変な議論が炸裂していますが,個人情報が電子的に管理されている事実はどんどん加速しています。

 クレジットカード会社や保険会社,どこかの図書館の採用で有名となったポイントカード会社にも,個人情報なるものが山のように保管されています。
 最近は買い物履歴の活用が表立ってきて,amazonはもとより,楽天やヨドバシカメラといった通販はどんどん個人情報を紡ぎ出して記録しています。最近では書店のポイントカードにも店頭で買った書籍や雑誌の記録がしっかりと活用され始めて,乱読派の私としては少し恥ずかしい気分になりました。
 また,モバイルデバイスにつきもののアプリの購入も履歴は欠かせないものです。履歴のおかげで同じアプリを別のデバイスにインストールする際に買い直す必要がありません。とはいえ,これも興味本位で試したアプリまで履歴に残ってしまうため,とても恥ずかしい気分がたまにやって来るものです。

 それでも私たちは,個々のサービスにいくばくかの不安を抱きつつも,個人情報が電子記録されていること自体に文句をつけることを普段はしません。
 問題が発生して被害を被らないかぎりは,そういうもの一つ一つにいちいち構ってられない現実もありますし,利便性が不安を上回っているかぎりにおいて成立する構図なのだと解説する人々もいます。
 おそらく,個々のサービスに個人情報の記録や蓄積を許可するにあたっては,個々人が自主的にサービスに申し込む手続きがあったわけで,それゆえ利用を開始した以上は文句も言いづらいということもあるのかも知れません(専門家がそういう人々の心性をおかしいと指摘するのはあるでしょうが,日本の消費者にはそういう傾向があるのも確かと思います)。
 そして,個々のサービスが独立していて,自分の個人情報がそれぞれの会員番号か何かで別個に管理され,バラバラに散逸しているという認識が,加速しつつある個人情報の電子化という事実に対する免罪符というか,寛容を担保しているのかも知れません。
 つまり,マイナンバーなりパーソナルファイルなり,情報が一元管理されると,個人情報の漏えいや被害に際限がなくなってしまうという理解が懸念の背後にあるのだと思います。
 実際,これまでいくつもの企業で個人情報やアカウント情報へのハッキングや漏えいが起こりニュースとなってきましたが,それらはあくまでも一企業が管理する範囲のものであり,該当するサービスに登録していなければ一安心するのが私たちの心理だからです。
 しかし,これもちょっと考えると分かることですし,事件の度に言及されることですが,それらのハッキングされた企業に登録している個人情報とやらに,もしもクレジットカード情報が含まれていると,被害が限定的とは言えません。
 むしろ,自分に関する情報の何をどのサービスに登録していたのかがバラバラであったり,多すぎて忘れてしまうことによって,自分が被る被害に見当がつかなくなるデメリットさえあり得ます。

 個人情報が悪意によって盗み取られる問題は,多くの人々の関心を集めるテーマですが,もう一つ,個人情報の寿命については,まだそれほど関心は高くないかも知れません。
 4月12日(米国)にGoogleが新しい機能の提供を発表しました。
 「Inactive Account Manager」という機能は,自分のアカウントの利用が一定期間休止していた場合に,Googleに記録していた情報をどのように処理するかを設定できるオプションです。
 つまり,自分が何か不慮の事由で世を去ったときに,Googleの利用がなくなるわけですが,その期間が半年や一年間続けば,それは何かの理由でGoogleの利用が今後一切出来なくなったこととみなし,データを削除してくれたり,あらかじめ登録した信用できる相手に譲渡できるというわけです。
 今までは,どれだけ便利に自分のデジタル個人情報(デジタルアセットという言葉が使われています)を生み出したり記録して活用するかがサービスに求められていたわけですが,今後はデジタルアセットをどのように最終処分するのかということも管理できるようにしなければならないわけです。

 もっともこうしたサービスは何もGoogleが初めて取り組んだわけではありません。
 海外では「Legacy Locker」が自分のデジタルアセットを家族などに相続できるサービスとして話題になっていました。他にも似たようなサービスがいろいろ存在しています。
 日本ではYahoo!ボックスが自動削除機能を予定しているなどのニュースが過去にありました(まだ実装していないようですが…)。
 また,インターネットと死についてライターの古田雄介氏が興味深い記事を書いていますので,これも大変勉強になります。「古田雄介の死とインターネット
 ローカルのハードディスクの情報を死後に処分するためのソフトもいくつか登場してます。(「」「僕が死んだら…」「暗号化ハードディスク」)
 こうして見ていくと,電子化された個人情報が散逸しているという事態は,電子情報を処分するところまで管理しようとする場合,大変面倒な事態ともいえます。いろんなサービスに登録し散らかしたものを遺族にすべて処分を任せるとしたら…考えると非常に酷な話です。
 ゆえに,現実的に個人の情報を膨大に扱っているGoogleが,この手の機能に着手したことは,ある意味で歓迎すべきニュースかも知れません。

 さて,人生と電子情報(デジタルアセット)という非常に範囲の広い問題を考えると同時に,学校教育における電子情報の扱いについても考えていく必要が当然あります。
 ドラマの「パーソナルファイル」は,その後「パーソナルストレージ」機能も付け加えたオープンソースに発展していきました。
 もしもそういうものが存在すれば,学校教育で紡ぎ出した個人情報や学習活動の成果(たとえば活動の記録写真やノートの電子記録など)を自分のパーソナルストレージにどんどん溜め込めばよくなり,情報の保管を学校が背負わなくてよくなります。
 しかし,現実的には,学校教育でのICT活用の際に使われる記録保管場所は,校内サーバー(あるいは校内NAS)であり,どんどん溜まっていく電子情報をどのように整理し,処分するかは,公的に決まったルールも,全国の学校の共通理解も,存在しません。
 私はよく「これからの時代,卒業記念品は大容量USBメモリになって,卒業式の日には校内サーバから自分のデータをコピーする儀式が行なわれるようになるでしょう」という冗談を人に言ったりします。
 学校教育で生み出される電子情報の在り方を考えるにあたって,それらを単にディスクスペース確保のためだけに容易に消去してよいのか,やはりデータは個人の元に手渡されるべきではないのか,といったことも,もっと真剣に考えられるべきなのです。

 少しずつ,こうした問題意識に届きつつあるサービスや開発の話を聞くようになっています。学校教育現場に関わる者は,こうしたテーマについても関心を持つべき時代になったのです。