変わらざるを得ない学校教育の守備範囲

平成29,30年改定の学習指導要領にもとづく学校教育への移行が準備され,段階的とはいえ来年度から本格実施となります。

私自身はもともと,教育内容研究の学徒としてこの道に紛れ込みましたので,研究対象として学習指導要領改訂を追いかけてきました。

ちょうど平成元年改訂の「新しい学力観」に始まり,平成10年改訂「生きる力」,平成20年改訂(21世紀に対応する生きる力の深化)を経て,平成29年改訂「資質・能力(コンピテンシー)」を同時代的に眺めてきたことになります。

個人的所感になりますが,学習指導要領は常に「新しさ」を盛り込んで改訂されてきました。とはいえ,いわゆる法的拘束力をもつ存在として,自由闊達な教育の創造を促すというよりは,それに従うことによって新しさを出していく傾向を引きずってきたのだと思います。

学校関係者の献身的な努力によって,これまでは「新しさ」への追従もなんとか体面を保っていたわけですが,今後の学校教育を学校関係者だけの努力で運営していくことは限界に来ています。

まして平成29年改訂は,学習指導要領の捉え方自体を根本的に変更しました。

単に「新しさ」を追従するだけのやり方では,学習指導要領が目指しているもの自体を台無しにしかねないのです。

これからは,外部の地域社会の人々とも関わりを増やしながら,努力のエネルギーを創造的な方へ向けていくことが求められています。

しかし,学習指導要領には創造的な方向が「具体的に何を目指すのか」までは明記していませんから,それを学校関係者が地域社会を巻き込んで考えていかなくてはならないという課題が立ちはだかります。

そのような課題に取り掛かる経験した学校関係者は正直多くありません。

教師教育(教職員研修)や教員養成の領域も,この課題に立ち向かうためどうすればよいのか,これまでの取り組みの見直しを迫られているわけです。

過日,PISA2018の調査結果が公表されました。

様々な報道や分析が飛び交い,PISA読解力の順位低下に注目してデジタル・スキルの弱さを指摘するものや,報道記述の紋切り調を論難するもの,様々な要因が絡みあった結果だと考えるものなど,様々です。

私はたまたまタイミングよく,OECDのPISA調査結果発表カンファレンスの様子を動画ストリーミングで視聴していました(録画を見ることができます)。

OECD事務総長のグリア氏によって概要が発表された後,OECDの教育・スキル局長であるシュライヒャー氏が調査結果について解説をし,よき変化のあった国々の責任者が招かれてコメントをしています。

発表会ですので,調査結果の順位や点数の分析に言及していることは当然なのですが,むしろ,そこで語る人々の熱量は「よりよき日常生活」のために結果をどう受け止めて何に取り組むのかに多く注がれていました。

動画内に写る登壇卓にも記されている言葉ですから,OECDのキメ文句だとは思いますが,「BETTER POLICIES FOR BETTER LIVES」という言葉を彼らは臆面もなく強い口調で訴えるのです。

シュライヒャー氏も分析結果を背景とともに紹介しながらも,基本はこれからの時代に各国の教育が何を目指すのかが大事であるとの姿勢は崩していませんでした。『教育のワールドクラス』に著されている通りです。

アプローチは様々あるにしても,基本的には子どもたちのウェルビーイングを高められるよう「教師」が専門性を発揮できるようにする必要があり,そのためのサポートを各国がポリシーとして位置づけていくことを重視しているのです。

では日本の子どもたちや私たちの「ウェルビーイング」とは何なのか?

人生の満足感や質を高めるとか,人生の満足感や質を高めることを促す教育学習活動とは日本において一体何なのか?

教育に関わる人間どころか,一般市民でさえ,まともには語り合えていないテーマについて,学校教育関係者は専門性なるものを発揮して取り組まなければならない…と言われているのです。

情報時代の学校をデザインする』を著したライゲルース氏たちは,学習者中心の教育への転換のために6つのアイデアが必要だと論じています。

1. 達成ベースのシステム
2. 学習者中心の指導
3. 21世紀型スキルを含む広がりのあるカリキュラム
4. 教師,学習者,保護者およびテクノロジーの新たな役割
5. 調和ある人格を育む学校文化
6. 組織構造,選択,インセンティブ,意思決定のシステム

6つと言いながらも中身は多様な内容です。率直に言えば,新しい私立学校をつくるでもない限り,6つを実現するのは容易ではないと思います。

しかし,強いて何から取り組むことが公立学校の教職員に可能なのかと考えると,「4」の新しい役割を認識することからではないかと思います。そこから「2」を再構築し直したり,「1」を導入したり,やがて「3」や「6」が必要になって,「5」が生まれるとイメージしつつ,実際の順番にこだわらないことが必要なのでしょう。

大事なのは,学校設置者である教育委員会や基礎自治体の全部局,地域社会全体が当事者としてコンセンサスを持つことです。必要があればコミットできる状態をつくることでしょう。

人々が分断したまま,慣例的に自動化された手続きによってだけ運用されるような地域社会には「ウェルビーイング」は生起しないということです。

もちろん,日本のムラ社会的な仕組みは,郷に入っては郷に従うことで得られるメリットがたくさんありました。その善さをすべてスポイルすべきとは思いません。それがウェルビーイングの選択肢としてコンセンサスを得られるのなら,納得できる持続可能な方法で目指せばよいと思います。

ただ,やはり時代が進み,世界的な視野を必要とする世の中になってきて,なんの見直しも再検討もなしに従来の仕組みを継承することは難しくなっている。それが学校教育の守備範囲を変えざるを得なくなっている事情でもあると思います。

少し前にもてはやされた「反転学習」という取り組みがあります。

授業でやっていた習得学習と家庭に持ち帰っていた課題学習を「反転」させて,家庭で動画教材などを活用して習得学習してもらい,授業で課題を取り組みながら教師や仲間の学習者との協働学習を深めてもらうというアイデアを出発点にした学習形態です。

しかし実際には,名前ほどキレイに反転したやり方の取り組みはハードルが高く,その上,話題を集めた当時は動画教材の活用などがワンセットで取り上げられがちであったため,敷居の高さを感じさせてしまいました。

先行して取り組んだ学校や教員の方々は,事前の教材研究や準備の大変さを乗り越えて,蓄積された学習教材リソースを元手に現在も順調に取り組みを進展させているのですが,その山を越えられなかった人々や世間の関心はサーッと引いてしまった感はあります。

日本での「反転学習」の現実的な受容のされ方は,反転ではなく,「前倒し学習」と呼ぶべきもので,もしかしたら,そのようにネーミングを変えて理解の浸透を目指すべきだったのではないかとも思われます。

学習を前倒すことによって,何を実現させようとしているのか。

そう考えた時,平成29年改訂の学習指導要領が目指している「社会に開かれた教育課程」とは何か。延いては社会とともにある学校教育の姿というものを新たに描かざるを得ない理由も見えてくるのかも知れません。

だいぶ長くなりました。続ける前に一区切りつけたいと思います。