RasPi4iPadPro

小さな実力者

2012年に登場した安価な小型コンピュータ「Raspberry Pi」(ラズベリーパイ:ラズパイ)は,第4世代モデルが登場するまでに至って,なお世界中で人気のコンピュータです。

名刺入れサイズ面積の厚さ3センチ弱の箱に納まるミニサイズながら,立派なコンピュータで,1万円を切る価格で提供されていることが特徴です。

オープンな基本ソフトであるLinuxと各種ソフトが動くパソコンとして,また業務用に匹敵するLinuxサーバーとしても使えます。小さなLinux環境。

英国ラズベリーパイ財団によって,もともと教育向けを主眼として開発されたこともあり,コンピュータサイエンスやプログラミング教育で利用されることも多いです。中高の教科「情報」で使う学習ツールとしても適しているのではないかと思います。

ただ,この日本では,まだそれほど浸透している気配はありません。特に学校教育の導入事例は大変限られていると思います。

理由は,いろいろ考えられますが,端的には,ラズパイがデスクトップパソコン的に使わざるを得ない機器だからだと思います。

たとえば雑誌『子供の科学』関連で企画された「ジブン専用パソコン」はセレクトパッケージとして大変人気で売れ切れ状態の商品ですが,明らかに据置き指向の構成です(一式持ち出せますが…)。

はじめよう!ジブン専用パソコン(子供の科学)
http://prog.kodomonokagaku.com/jibun/index.html

独自の筐体パッケージを提供する「Kano」や「RasPad」のようなもありますが,つまりは如何様にでもなるDIY的な利点が,大量に導入というときの選択肢になりにくいということかも知れないのです。

Kano
https://kano.me/row/store/products/computer-kit-touch
https://kano.me/row/store/products/kano-pc
RasPad
https://www.raspad.com

せっかく小型で比較的安価なコンピュータをもっと活かせないものか。

Linux環境を一つずつ

Linux環境は,教科「情報」やコンピュータ科学を学ぶ中で,良い土台となるものの一つです。なにしろ本物のコンピュータですから。

でも,GIGAスクール構想の端末候補には入れてもらえなかった。

いやいや,1人1台学習者用端末というのは仮の姿,実は着々と進みつつあるのは1人1つLinux環境なのです。

Windowsは「Windows Subsystem for Linux」という互換機能を提供してLinux環境を付加しています。mac OSはもともとUNIXというLinuxのお父さん(?)と互換です。Chrome OSはAndroidと同じでほぼLinuxでできています。iOSは家出(?)しましたが元はmac OS(UNIX)の家系です。

ほとんどのコンピュータがLinux環境と縁があることになります。

なので,GIGAスクールのモデル端末のどれを選んでもLinux環境と付き合うことに…ああ…ならないのが一つありました。iOS/iPad OSです。親戚のくせして自分の環境を使わせてくれません。

そこで,ラズベリーパイの登場です。

シンプルに独立したLinux環境をプラスすれば,端末個別に存在する細々とした違いを気にすることなくLinux環境を確保して操作することができます。

そこで,今回はまず,iPad Proにラズパイを組み合わせることをご紹介してみようと思います。実は,新しいRaspberry Pi 4なら,ゲーブル一本でiPad Proに接続することができるのです。

RasPi4をiPadProにつなぐ

ラズパイZeroという超小型版をUSBで接続することから始まったテクニックなのですが,ラズパイ4がUSB-Cコネクタを採用したことから名刺サイズ版でも可能になったとのこと。

Pi4 USB-C Gadget(Ben's Place)
https://www.hardill.me.uk/wordpress/2019/11/02/pi4-usb-c-gadget/
Connect your Raspberry Pi 4 to an iPad Pro(Raspberry Pi F.)
https://www.raspberrypi.org/blog/connect-your-raspberry-pi-4-to-an-ipad-pro/

大ざっぱな手順はこうです。
1) 別のパソコンでラズパイ用の基本ソフトを入手する [LINK]
2) 手順通りにラズパイをセットアップする
3) ラズパイを最新状態にアップデートする
4) ブートローダーのアップデートをする [LINK](最近は済んでいて不要かも)
5) 情報提供ブログの箇条書きの通りに設定する [LINK]
6) iPadアプリを用意してアクセスする
こんな感じ。

手順5)の中でいくつかファイルを編集したり作成したりする必要があるのが面倒ですが,当該ブログにアクセスしてコピペしながら作業すれば,少しは省力化できます。

といっても,これだけでは初めての人にはまったく分からないので,機会をみつけて動画で紹介できればと考えています。

セッティング作業には,別途ディスプレイと,マウス,キーボードが必要になりますが,作業完了してしまえばラズパイ単独をUSB-CケーブルでiPad Proにつなぐと起動して,iPadの設定アプリで「Ethernet」項目が現れます。

あとは,決め打ちで設定したIPアドレスに対してSSH接続をすると,このEthernetを経由してiPad Proからラズパイを操作できるようになるというものです。

ところで,ケーブル一本でつながるのはシンプルでいいものの,長時間作業しているとiPad Pro側のバッテリーを使い切ってしまうのではないかという素朴な事実が浮かび上がります。確かにそうです。

シンプルな構成でも数時間なら問題ないので,出先はこのスタイルで運用するとしても,デスク作業の際はやはりiPadを充電しながら接続したい。

USB-Cコネクタが2つ付いているUSBハブを挟めば,ACアダプタからiPad Proとラズパイに通電しながら運用できます。仮にUSB-Cコネクタが一つで残りUSB-AコネクタしかないハブでもラズパイにつなげるケーブルをA->Cにすることで同じことができます。
(確認済みですが,ハブやケーブルによってはうまく動作しない可能性はあります。写真はサンワサプライのものです。 https://direct.sanwa.co.jp/ItemPage/400-HUB075BK

ラズパイを扱うためのiOSアプリ

iPadからラズパイを操作するにはアプリが必要ですが,そのためのアプリはいくつか候補がありますのでご紹介します。

PiHelper - ラズパイアシスタント
https://apps.apple.com/jp/app/id1369930932

このアプリはラズパイを遠隔管理する目的で開発されたもので,今回の用途にドンピシャだと思います。CPUやメモリ,ディスク容量の表示やSSHとSFTP接続機能があり,再起動や停止メニューもあって便利です。慣れてくると使い勝手の要望がいろいろ出てきそうですが,手始めとしてのPiHelperは申し分ないです。

VNC Viewer - Remote Desktop
https://apps.apple.com/jp/app/id352019548

Linux環境というのは文字ばっかりのテキストコマンドライン環境がベースですが,もちろんウインドウ表示するグラフィカルデスクトップ環境も用意されています。しかし,その場合iPad Pro側はVNCという方法でラズパイを覗かなければなりません。そのためのアプリがVNC Viewerです。

Textastic Code Editor 9
https://apps.apple.com/jp/app/id1049254261
テキストエディタ LiquidLogic
https://apps.apple.com/jp/app/id1458566442

そもそもLinux環境で何をやるのかは人それぞれですが,コーディング(プログラミング)作業をする人たちにとってはエディタソフトは必携です。いろんな選択肢がありますが,ここでは2つご紹介。SFTP接続することでラズパイ上のファイルを読み書きできます。

Blink Shell
https://blink.sh

ラズパイとiPadをSSH接続するときに一番紹介されるのがBlinkです。といってもApp Storeでは有料アプリ。実は中身は公開されているのですが,アプリの仕上げを自分でしなければならず,そう簡単ではないので手間代ですね。

Prompt 2
https://apps.apple.com/jp/app/id917437289
Code Editor by Panic
https://apps.apple.com/jp/app/id500906297

これもBlinkと同じく有料のSSH接続アプリが「Prompt 2」です。その会社が出しているエディタアプリ「Code Editor」も有料ながら使っています。個人的な好みで以前購入していたので,これらを使っています。

プログラミング学習(高校編)

さて,これで何をするのかというお話も少し。

中高の新しい教科書は採択や検定段階なので,たとえば「ネットワークを利用した双方向性のあるコンテンツのプログラミング」とか,共通教科「情報Ⅰ」におけるコンピュータとプログラミングの具体的教材レベルの情報は少ないのが実情です。

高等学校 情報(教科書教会)
http://www.textbook.or.jp/textbook/publishing/high-info.html
中学校 技術・家庭(技術分野)
http://www.textbook.or.jp/textbook/publishing/junior-technique.html

ただ,高校に関しては文部科学省の教員研修用教材が公表されています。

文部科学省の「高等学校情報科「情報Ⅰ」教員研修用教材」の第3章「コンピュータとプログラミング」がベースイメージになるのでしょうか。

高等学校情報科「情報Ⅰ」教員研修用教材(本編)
https://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/zyouhou/detail/1416756.htm
第3章 他プログラミング言語版
https://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/zyouhou/detail/1421808.htm

Python版の第3章108頁にある「Mu」エディタはラズパイ用もありますので,問題なく使うことができます。

Mu for Raspbian - Instructions
https://codewith.mu/en/howto/1.0/install_raspberry_pi

もっともiOSには「Pythonista 3」という有名Python開発環境アプリがあるのでPythonの場合はそれを使った方がいいかも知れません。

Pythonista 3
https://apps.apple.com/jp/app/id1085978097

正直なところ,文部科学省の教員研修用教材は環境構築に関しての記述は皆無で,チュートリアル的でないところは少々不親切です。検定教科書はもっと見栄えがよくなるんでしょうけれど…。

プログラミング学習(中学編)

中学校の方はいくつかヒントになりそうな資料が上がっていますが,見たところ双方向のところはScratch 1.4のMESH機能を使っていたり,Linux環境はあんまり出番がないかぁ…。

中学校 技術・家庭の広場(東京書籍)
https://ten.tokyo-shoseki.co.jp/kyokah/chu/gijutsu-katei/
平成30~令和3年度用移行期資料 中学校技術・家庭 技術分野(開隆堂)
https://www.kairyudo.co.jp/contents/02_chu/gijutsu/h33iko/index.htm

いやぁ,ちょっと待って。

もっとラズパイ+iPad Proで面白いことができるはずなんですが,それはやはりコンピュータサイエンス部みたいなマニアックな活動向けかなぁ。

CS研には手を出すな!…みたいな。

 

GIGAスクールネットワークとGIGAスクール

あらかじめお断りしておきますが,今回も読むべき内容は何もありませんので,いつもの駄文とご理解ください。

さて,こちらの2つの図をご覧ください。

令和2年度概算要求主要事項1
令和2年度予算(案)主要事項

GIGAスクールに関わる予算説明スライドです。上が令和元年8月に公表された概算要求時のもの,下が令和2年1月に公表された令和2年度予算案に添付された令和元年度補正予算のものです。

関係者の方にとっては涙目になりそうな並びの2つのスライドですが,ご承知の方がいらっしゃるように,概算要求時には「GIGAスクールネットワーク」となっていたものが,補正予算が絡んできたことによって「GIGAスクール」と改名されました。

GIGAスクールネットワークで描かれていた青写真が,GIGAスクールのものより,もう少し緩やかであったということはお分かりいただけるのではないかと思います。

消費増税による景気悪化を回避するために大型補正予算を組むという路線が進められていたわけですが,この10兆円規模を目指した補正予算に「学校に1人1台端末」がいつから項目として上がったのか,これは地方に住む田舎研究者には知る由もありません。

消費税アップが決まれば,それと合わせて景気対策が必要であることは既定路線だったわけで,政治臭覚鋭い議員の人々にとれば,そのために超党派の議員連を作って働きかけを続けてきていたわけだし,規制改革推進会議の場での議題に取り上げられた時から,誰かの腹の中にはGIGAスクールネットワークがGIGAスクールの前座の役目でしかないというシナリオが温められていたかも知れません。

そういう意味では,年末年始から今に至っても続いているGIGAにまつわる関係者の苦闘を,それさえ最初から予想していた人たちもいたのだと思います。

当初予算に盛り込める予算金額枠は,財務省が緊縮財政を路線としている以上,当然限られています。せいぜい全国の中の1万校を整備しようというGIGAスクールネットワークの規模程度です。

全国の学校内ネットワークインフラを一気呵成に整備するような規模(それでも割れば微々たる規模の)予算と,小中学生への1人1台学習端末の整備というそれなりに大きな額の予算を確保するには,今回のように15か月予算というスパンでとらえ補正予算によって確保する他ない…おそらく,そういうストーリーなのだろうと素人解釈で思います。

しかし,補正予算扱いにするからには法律上,その緊急性が問われることになっています。当初の計画になかったものが割り込むのですから,その理由が必要というわけです。

ここで多くの人々が思い当たると思いますが,その理由の一つに挙げられたのがPISA2018の結果とその解釈でした。曰く,デジタル読解力に課題がある。考えられる要因には日本の学校のICT環境や活用頻度が乏しいからではないか。これはまずいぞ,大変だ…といった緊急性です。

その他にも,教育情報化の実態調査はこれまでもずっと国内における整備格差の存在を示し続けてきました。さらに本格実施される学習指導要領は情報活用能力を始めとした資質・能力の育成を前提としたものなのに,学校の教育環境はそれを実践する条件を満たせてないこと。プログラミング体験・教育が本格的に始まることも待ったなしの緊急性に数えられると思います。

経済対策としての即効性と早期着手を必要とする緊急性,さらにインフラ整備事業という性格から来る様々な制約に追い立てられた状況の中で降りてきたのがGIGAスクール構想ということになります。

財政や経済が私の専門ではありませんので,この現実をどのように捉えて付き合うべきか,正直なところ答えを持ち合わせていません。(そもそも全体解釈も専門家から見れば違っているのかも知れません。)

この問題には様々な次元(レイヤー)があって,政治,財政,教育行政,地方自治,学校,教職員,児童生徒,産業界,学術界,市民住民などなど,どのレイヤーで理解したり,批判したり,主張したりすべきかは人や場面で変わり得ます。

莫大な支出が伴うことを肯定するのか否定するのかも,レイヤーが異なれば変わり得ますし,どういうスパンで議論するかによっても違ってきます。

効果があるのかないのか,十分活用できるのかどうなのかという論点も,ICT整備を教具や文具を揃えるという観点で捉えるのか,学校が備えるべきインフラ条件という観点で捉えるかによっても,議論の幅が広がっていきます。

実際のところ,こうした物事の決まり方は酷く乱暴です。

これをもっと丁寧に実現することができないものかと,私たちはいつも考えます。今回の件で苦しんで,文句の1つも2つもたんさん言いたいという人たちの心情も,痛いほど察します。そう思いつつ,いま目の前のこと,協力もしあいながら,理解も示しながら,なんとかやっていくしかない。

でも一方で,こうした酷い事態を招いてしまったのは,この国の在り方をそのまま引き継いでしまったことにも遠因があるわけで,実のところ私たちもその一端を担ってしまっていたことを考えたとき,百も言いたい文句の中に,一つくらいは「だったらこうしてはどうか」と前に進む言葉も入れたいと思いもします。

現実を相手にされている皆さんには,なんら慰めにもならない話で終わりましたが,宛てもないブログで私が書けるのはこの程度のお話でした。

メタ認知的素朴理論?

先日,大阪の小学校に助言講師としてお邪魔しました。

ICT活用をテーマとした公開授業でしたが,活用の拠点校として,公開されたいずれの学年もICTそのものにフォーカスするのではなく,授業のねらいを達成するために取り入れられた形となっていて好感が持てました。

私の話でも,ICTそのものより,改訂された学習指導要領が,これまでとよく似た顔をしながらも体質をガラッと変えてしまったフルモデルチェンジ相当のものであることをお伝えしていました。

その中には「資質・能力」や「見方・考え方」というキーワードとともに「メタ認知」についても取り上げていました。

この1週間くらい前,私はベイトソンの「学習とコミュニケーションの階型論」(『精神の生態学』)を読む機会を持ちました。

〈学習I〉〈学習Ⅱ〉〈学習Ⅲ〉というキーワードで知られるベイトソンの学習概念論をまとめた論文です。特徴的な分類名が印象に残っている方々もいらっしゃると思います。ちなみにベイトソンは「ダブルバインド」に関する言及が有名で,これも学習と深く関わる概念です。

「学習とコミュニケーションの階型論」をあらためて読み,これは学習の分類の話ではなく,学習の階型に関する話なんだと,論文タイトルが意味していたことをあらためて気がつかされました。自分は今まで何を見ていたのかと…。

あらためて…,
私たちが,あるメッセージを受け取るためには,メッセージを文脈に位置づけてカテゴライズする必要があります。この人何のこと言ってるんだろう?と考えることです。

小難しく言うと…
あるメッセージをカテゴライズする際,メッセージを「メンバー」,カテゴリーを「クラス」とすれば,「メンバーのクラス分け」が生じているといえるわけです。このクラスとメンバーという階層構造が厳密で,正しくメンバーをクラス分けをしないと,私たちの学習もコミュニケーションもうまく成立しませんよというのが学習とコミュニケーションの階型論の前提です。

実は,この時点ですでに「メタ」な要素が登場しています。
メンバーのクラス分けができるということは,すなわち全体を引いてみて俯瞰できているということ。一段上がったメタ的な視点でものごとを認知しているのだといえます。

つまり,階型というのは,単に区別して仕分けるだけの分類とは違い,階級の違いをメタ的視点で認識した上で上下関係を混同することなく仕分けることができることを意味しているのです。

ちなみに,せっかくですので学習の階型についてそれぞれの定義部分を若干要約改変して抜き出してみます。実はゼロとかⅣとかもあります。

〈ゼロ学習〉:反応が一つに決まっている
〈学習Ⅰ〉:反応が一つに定まる定まり方の変化,すなわちはじめの反応に代わる反応が,所定の選択肢群のなかから選びとられる変化
〈学習Ⅱ〉:〈学習Ⅰ〉の進行プロセス上の変化。選択肢群そのものが修正される変化や,経験の連続体が切り取られる,その切り取られ方の変化
〈学習Ⅲ〉:〈学習Ⅱ〉の進行プロセス上の変化。代替可能な選択肢群がなすシステムそのものが修正されるたぐいの変化
〈学習Ⅳ〉:〈学習Ⅲ〉に生じる変化。地球上に生きる(成体の)有機体が,このレベルの変化に行きつくことはないと思われる

ご覧のように,一つ前(下位)の段階の学習の変化に関して言及する定義になっていることが分かります。

また,「ダブルバインド」は,階型の違う(等級の違う)メッセージ同士が矛盾を引き起こしていることで生じる現象とされています。

たとえば親子関係で,親が子を遠ざけたり敵意があるような行動(メンバー)をとってしまっているにもかかわらず,これを「あなたのことを愛しているから」と子を想っているように言及(クラス分け)するといったような状況です。

そんな風にベイトソンの論文に刺激を受けて,階型論やダブルバインド,メタ認知のことが頭の中をかき混ぜている時に,小学1年生のクラスの公開授業を参観したのです。(やっと本題が帰ってきました)

算数で「数を数える」教材をデジタルで作成して用いる授業でした。ICT活用そのものは特別なものはなく素直なものでした。これは全学年で地に足のついた利用ができていたという意味でよいことです。

金魚の数を数える題材でした。
しかも金魚には種類の違うものがありますから,「わかりやすくせいり」して数えることを学習のねらいとしています。金魚は良いモチーフだと思えました。

しかし,これがくせ者でした。

金魚は,昨年6月ごろに行なわれた授業参観時の教材モチーフとして,すでに登場済みだったのです。そしてこれにまつわる経験がこの1年生クラスには共有されて残っていました。

「先生,またいじわるするつもりやろ」

どうも昨年の先行授業の金魚を使った教材で,少々意地悪な演出をしたことが子どもたちには印象に残ったらしく,今回もそれで引っかけようとしているんではないかと子どもたちが思ったようなのです。

こうした連想にもとづく子どもたちの反応は,授業では珍しいことではありません。ちょっとの脱線があって「でも,今回は違うから大丈夫」とでも返せば,治まるのがパターンです。

ただ,今回の金魚は,凄かった。授業中,終始,先生は金魚で意地悪するんじゃなかろうかと突っ込みを入れてはクラスが涌くわけです。

担任の先生との関係性ができているからこそのやり取りだから,このクラスにとっては大したことではなかったりでしょうけれど,初めて訪問した私の目には凄い光景にしか見えませんでした。

そして私は,助言のために用意していた「メタ認知」の話と,ベイトソンのコミュニケーションの階型論のことを思い返して,日本の授業に展開するメタコミュニケーションが思っている以上に大きな問題なのではなかろうかという妄想を展開するようになっていったのです。

もっと乱暴に言って,大阪・関西というエリアに対するステレオタイプにもとづいて考えてしまうなら,笑いとか関西ノリのようなメタコミュニケーションに対する認知が異様に発達している子どもたちに立ち向かうことの難しさを,あらためて痛感したのでした。

今度の学習指導要領が「メタ認知」を含んだ能力観を前提としているなんてことがよく言われたりするわけですが,実のところ,本音と建て前という形でも分かるように日本というのは高度にメタ認知を働かせている文化圏であり,いまさらメタ認知を意識して…という次元では全くないわけです。

むしろ必要なのは,すでに日常生活や社会生活の中で培われてしまっているメタ認知のメタ認知的知識やメタ認知的技能などを,その上の次元を駆使してどうやって学習へと仕向けさせていくのかというメタメタ認知的な方略を考えることではないかと思えたのです。

私たちは,日常生活の観察にもとづいて身につけてしまう知識や概念のことを素朴概念とか素朴理論といって,ときに正しい知識と矛盾する場合の誤概念をどうやって学びほぐす(アン・ラーニングする)のかについて議論することがあります。子どもたちは全くの白紙で学校にやって来て授業を受けるわけではないからです。

同様な意味で,メタ認知についても日常生活のコンテキストにもとづいてある種の素朴概念や理論が身に付いてしまっていると考えるのは不自然なことではないと思います。

だとしたら,この「メタ認知的素朴理論」とでもいったものをどうにかするためのメタメタ認知的なアプローチを考えていくことが必要な領域もきっとあるのではないか…。

ちょっと妄想が過ぎましたが,ベイトソンの学習の階型論を〈ゼロ〉から〈Ⅳ〉まで辿っていくことを考えると,思考実験的ではありますが,もしかしたら実際の授業を読み解く際の面白い捉え方ができるのではないかとも思います。

今回は全員の良好な関係性の中で展開される素直なコミュニケーションでしたが,一方で,等級の異なるメッセージ同士の矛盾によるダブルバインドのことを考えると,むしろこっちの状況で悩んでいる人が実際問題多いのかも知れません。

お父さんとお母さんとで言っていることが矛盾しているとか,先生と先生とで言っていることが違うとか,国と教育委員会とで言っていることが違うとか…。

ベイトソンに言わせれば,日本人はみんな精神分裂症を発症しているのかも知れません。それが当たり前になっているというだけで。

1人1台端末に関する報道

20200123「小中学校にパソコン1人1台 特需を喜べないメーカー」(日経新聞)
20200126「社説:1人1台PC 投資に見合う教育効果あるか」(読売新聞)
20200127「1台27万円? 小中学校に「PCを1人1台」で膨れ上がる予算」(週刊ポスト)
20200130「【動画】小中学校のパソコン1人1台 「1台27万円」のケースも」(NEWSポストセブン)
20200131「差額はどこに?小中学生に元値8.5万のPC配布も「費用1台27.8万円」の怪」(MONEY VOICE)
20200131「Atom搭載の富士通「ARROWS Tab」が1台27万8000円、渋谷区の小中学生向けパソコンは”ぼったくり”なのか」(BUZZAP)
20200201「1台27万円?小中学校に「PCを1人1台」で膨れ上がる予算」(Togetter)
20200201「渋谷区の児童用27万円のパソコンは高いのか?実際に考えてみた」(かえざくらのつぶやき)
20200202「「1台27万円」はぼったくりなのか?」(稲田友@note)

昨年末に閣議決定された経済対策にかかわる令和元年度補正予算案の採決が,この数日に行なわれる予定です。

(2) Society5.0時代を担う人材投資、子育てしやすい生活環境の整備
①学校のICT環境整備 233,043(百万円)
 (イ) GIGAスクール構想の実現 231,805(百万円)
  (i) 高速大容量のネットワーク環境の整備 129,565(百万円)
  (ii) 学習者用コンピュータの整備 102,240(百万円)
 (ロ) その他 1,238(百万円)
  先端的教育用ソフトウェア導入実証事業費 1,000(百万円)
  教育現場におけるローカル 5G活用モデル構築事業費  238(百万円)

教育の情報化分野に関わる私たちにとって,GIGAスクール構想関連の予算が含まれていることもあり,俄然注目度は高まります。

補正予算に関する審議が衆議院予算委員会等で行なわれるにあたって,いくつかの関連報道がなされました。

20200123「小中学校にパソコン1人1台 特需を喜べないメーカー」(日経新聞)
20200126「社説:1人1台PC 投資に見合う教育効果あるか」(読売新聞)
20200127「1台27万円? 小中学校に「PCを1人1台」で膨れ上がる予算」(週刊ポスト)

読売新聞社の社説は「配備されるPCを使ってどのような授業をするのかが、見えていないことである。1人に1台が本当に必要なのか」と問いますが,学校での情報環境の整備問題と授業での適切な活用問題をごちゃまぜに問題構成するのは,良い問いとは言えません。

こうした迫り方による批判視が「配備されたPCを使うこと」自体の目的化を生む圧力となっていることに気付かなければなりません。

週刊ポストの記事は,補正予算案で確保された巨額の予算枠に対する懸念を素朴に表明したもの。端末整備したら終わりにはならなず,いわゆるシャドーコストと呼ばれるものを見込むと額が膨れ上がることを指摘しています。

読売新聞社説と同じく,巨額な予算に対して懸念を感じているわけですが,それ自体の否定というよりは,考えている以上にお金がかかる可能性の指摘という点で違います。もちろん,その可能性も憂慮すべき問題ではありますが。

週刊ポストの記事では,取材協力者として私のコメントも掲載されました。

「端末を配置すると、管理する人件費が一体でついてくる。保守や支援員の人件費を継続的につけるか、初期段階での教員への研修などを通じて教員自らできる体制にするか。いずれかしかない」

週刊ポスト』2月7日号 137頁より

この分野に関する全般的な情報の提供を電話で長時間やりとりさせていただき,コメントはそれをもとにしたものです。

「端末配置に管理人件費が一体でついてくる」という言い方は,呑み込みにくいですが,要するに,人件費として費目が立てられないところにそのコストを入れ込むには端末費用に含ませるやり方もある,ということを語っていただけです。

PCや端末の活用が「従来の学校教育を大きく変える可能性がある」という読売新聞社説の指摘は正しく。学校教育を変えるためのマンパワーを始めとした諸コストは,今までちゃんと掛けてこなかったツケも合わせて,私たちが考えている以上に掛かってしまうかも知れない懸念があるのです。

こうした方向への選択を「うまくはやれないのだから,やはりやめましょう」と回避し現状維持に持ち込むこともできなくはないけれど,令和にまでなって,諸々の世界情勢や時代水準を鑑みた時,妥当だとも言えない。

とすれば,覚悟を持って前に進んで,もちろん掛かるコストも柔軟性と緊張感を持って監視調整していく努力をするしかないのではないかと思います。

今回,ノンフィクション作家の方に取材申込をいただき,東京と徳島で電話を使って情報提供をしました。貴重な体験させていただきました。

ちにみに,記事本文の穏当さに比べると,印刷雑誌の煽り見出しは少々センセーショナルな味付け。週刊誌の売り込み手法として,これは編集部の方々のお仕事なのだと思います。そうした点も興味深いです。

問いが悪いと嫌われる

資質・能力

「コンピテンシー」という言葉があります。

これを「資質・能力」と表現することが多いですが,資質も能力も知っている言葉なだけに分かったような分からないような状態のまま受け止めているのではないかとも思います。

平成29,30,31年改訂の学習指導要領も,GIGAスクール構想も,話の前提にしているのは「コンピテンシー」。

これについて関連著作を書かれている奈須正裕先生は,教育内容に重きを置いて作られてきた従来の学習指導要領と,資質・能力に重きを置いて作られた新しい学習指導要領を対比させて,前者(教育内容重視)を「コンテンツ・ベイス」,後者(資質・能力重視)を「コンピテンシー・ベイス」と表現されています。

比重の大移動が起ったんだと読めるわけです。

つまり,教科の知識・内容を習得するだけではなく,教科の特質に応じた「見方・考え方」を鍛えることも大事…という説明へと展開していくアレです。

ちなみにコンテンツとコンピテンシーは対立関係ではないよとも念が押されています。これはタキソノミーの議論を合わせて考えると見えてきたりします。

関わることは難しい

さて,いったいコンピテンシーとは何か。

奈須先生の解説をもう少し引くと,こんな風に書かれています。

心理学者ロバート・ホワイトがコンピテンスの語に込めた意味合いについて言及した部分です。

「興味深いのは,そこでは「知る」は単に名前を知っているとか理解しているということではなく,対象の特質に応じた適切な「関わり」が現に「できる」こと,さらに個別具体的な対象について「知る」(=関われる)ことを通して,汎用性のある「関わり方」が感得され,洗練されていくことが含意されている点でしょう。」

『「資質・能力」と学びのメカニズム』東洋館出版社2017,52頁

この「関わり方」への重きが「学び方」や「メタ認知」といった概念にも関わってくるわけで,教科の特質に応じた「見方・考え方」に誘うことが,その一環だというわけです。

コンピテンシーとは,目標達成や問題解決に向けて課題に「関わる」特性のこと。

しかし,どうしたら課題にうまく「関われる」のでしょうか。

私たちが思うほど,関わることは簡単ではありません。まして,関わってもらうことはさらに難しいかも知れません。

取り組むかどうか

マルザーノたちの『教育目標をデザインする』には,「新しい分類体系」(マルザーノのタキソノミー)を紹介するにあたって,「行動のモデル」というものが提示されています。

行動のモデル『教育目標をデザインする』北大路書房2013,11頁

マルザーノのタキソノミーの詳しいお話は今回は省きますが,大ざっぱに言うと人には3つの認知システムがありますよ…ということ。

そして「新しい課題」に対して「取り組むかどうか」,言い換えれば「関わるかどうか」を決めるのに「自律システム」というものが関係すると言っています。

その関門を突破したあと,「関わり方」どう関わるかに関係するのが「メタ認知システム」なんだ…というわけです。

ここからは,私なりに考えたことですが,「関わるかどうか」,「どう関わるか」という場面において「問い」の存在は重要なのではないかと思うのです。

良い関わりというものがあるならば,それは良い問いがあるからではないかと思うのです。

関わるとは問うこと

ある課題に関わる最初のきっかけは,気付きや好奇心でしょう。

気付きや好奇心に端を発した認知は,いろいろな問いかけを通して,どれだけ課題に「意欲」を持てるか値踏みします。

マルザーノ的に言えば,自律システムが,あーだこーだと「問い」を発しながら吟味しているのです。

この問いが他人事の問いで終始していると,課題に関わる意欲へとつながらず,上図「行動のモデル」で見るところの「No」へと進みます。

問いが悪いと課題に嫌われる…というわけです。

一方,自分事のように「問う」ことができれば,課題に取り組むことにつながっていきます。そして今度はより良い「問い方」ができるかどうかが大事になってくるのです。

より良い問いを持つことは,単に教科の知識で問うだけでなく,教科の見方・考え方で問うことが含まれていくのでしょうし,そうして培う「問い」は教科横断的に通用するものであると考えられるのです。

日本人の問いは嫌われる

日本では「問い」を軸にした学校教育はあまり行なわれてこなかったんじゃないかと思います。

正解のある問題を解く機会の方が断然多いし,問いを立てる場合も情報確認ができるようなものがほとんど。想定の難しい未知なる課題に対して「問い」をうまく立てるといった経験が少ないのではないかと感じます。

というのも,日本人の「問い」が海外の人たちから嫌われているなと思う場面を見聞きすることがあるからです。

たとえば,海外視察をする日本人の評判なんかがそれです。

日本人は,制度の仕組みや取り組みの理由について質問するけれど,当たり前のことしか聞かないし,質問しても実行しないらしい上に,別の人たちがやって来て何度も何度も同じ質問しかしないからうんざり…みたいな評判です。

日本人も,問いが悪いと嫌われる…ということになります。

嫌われてしまう悪い問いとはたとえばどんな問いなのか。

質問する必要が感じられない質問は,相手が徒労感を感じるかも知れません。素人や初学者でないなら考えれば分かりそうなことを問うた場合などです。

質問のための質問のように,問いが何かにコミットしたり,貢献しそうにないと,問われる意図が分からず不信感を抱くかも知れません。

そもそも,それを私たちに問うのか?といった相手を間違えているような質問は敬遠されて当然でしょう。自分たちの持ち場で問えよといったものなど。

大人の視察でこんな風ですから,私たちの日常が「問い」を研ぎ澄ますなんてこととかなり距離があることは目に見えています。

問いを学ぶ

海外では「問うこと」Questioningがどう取り組まれているのか検索してみると,いろんなものが出てきました。

たとえば,『たった一つを変えるだけ』(新評論2015)という訳本でも知られている取り組みとして,The Question Formulation Technique(QTF)というものがあります。それを推進する団体もあります。

Right Question Institute
https://rightquestion.org

日本の教員養成の現場でも取り組むところがチラホラ出てきているようです。

また,メタ認知や省察といったキーワードから自問自答すること,他者とのダイアローグを通して組織学習の文脈で考えるものもあったりします。

デジタル時代における問いの重要性

これもよく言われることですが,デジタル時代になって膨大なコンテンツをアーカイブしアクセスすることが可能になりました。

つまり,知識を覚えるということはデジタル技術にいくらかは任せて,むしろ人間が労力を割くべきは,アーカイブされアクセスできる膨大なコンテンツをもとに「問う」ことだというわけです。

そんな時代だからこそ,なおさら「問いが悪いと嫌われる」ことになります。

もちろん,突飛な問いや斬新な問いである必要はなく,地道な問いこそが何よりも大事なわけですが,それを学ぶ機会を学校が担うのだと考えていくことがこれからますます重要になるのだと思います。

規律などで統制することに重きを置いてきた日本の学校教育制度の中で,児童生徒学生が本当の「問い」を発して資質・能力を磨いていくことが可能なのかどうか,そのことに対する懸念がないわけではありません。

しかし,それこそまさに悪い問い。

おそらく,もっと前向きな問いを発しながら学校教育の文化さえ変えていくことが求められているのだと思います。

GIGAスクール構想の「GIGA」が「Global and Innovation Gateway for All」であることを思い返してみれば,整備されるネットワークや学習端末を,そのための条件整備と理解して進めていく必要があります。

学校という学習コミュニティが「問い」で満たされるよう関係者がもっと問いかけ合ってイメージを共有していくことが大事となりそうです。