インターネットラジオ elict radio

4月からインターネットラジオ配信局を暫定開局します。

エリクト・ラジオ(elict radio)と名付けられたネットラジオ局は,教育をキーワードにしたコンテンツを配信するための配信局です。

名前の由来はeducation(教育),learning(学習),information & communication technology(情報通信技術)の頭文字 e,l,i,c,tを組み合わせたelictです。

ラジオといえば24時間放送していてチューニングすれば聴けるのですが,残念ながら新しく立ち上げる配信局なので,elict radioには24時間も聴けるほど番組がありません。

その代わり,番組を,リスナーも含めた有志で作ることができます。

教育にかかわる多様な見方を許容でき,同じプラットフォームで相乗りできる人なら,誰でも作り手になれるのです。つまり,elict radioは参加型のインターネットラジオの1つなのです。

教育の様々な分野の関係者の人々が,自分たちの分野を広く知ったもらうための番組を作ることもできます。

学校の児童生徒さんたちが,自分たちの学習活動や成果を披露する手段としてラジオ番組を作ることもできます。それは学習発表やラジオ劇やボイスレターでもかまいません。

保護者の方たちが子育ての楽しみや悩みを共有する番組があってもいいと思います。

こうした番組は,これまでもローカルラジオやコミュニティラジオ局などで制作放送されてきて,いまでも全国各地で様々な番組が活躍されています。インターネットラジオの世界でも先達たちが魅力的な番組や配信をしています。

今回,新たに立ち上げようとしているインターネットラジオ配信局が他と違うのは,「教育」や「学習」といった分野を軸にする点です。そして,もっと学校教育に近いインターネットラジオ配信局になりたいという点です。

動画による情報発信が気軽にできるようになって,そちらの選択肢の方が魅力的に思える時代ではありますが,音声だけのメディアにも魅力やメリットがありますし,そのメディアを選んだときの発信場所,受け皿の存在になることがelict radioの願いです。

まずは4月から朝番組をスタートします。

時代の転換点であり,教育に関しても様々な新しい動きが起こっている今日,いろんなニュースを眺めてみようという番組を始めます。

最初のうちは,ゆる〜い仲間内の感じがするかも知れませんが,そこから「私なら,こういう番組を作ってみる!」という方が出てきて,このインターネットラジオ配信プラットフォームを利用してもらえるようになったらと思います。

-20190323_Sat 年度末のあれこれ

とっちらかった日々が続いている。

今日は自宅の用事を済ませて出勤。雑務を細切れに取り組んだり,ふらっと訪ねに来た学生の対応をしたり。ようやくブログを書こうという気分になる。

2月末から3月初めにかけて東京滞在をしていた。

毎年恒例で,東京周辺であれこれしたいことをまとめてやってしまおうという出張期間である。半ばプライベートなので,基本的には年休消化扱いだ。

今年もいろんな人とご一緒できた。行ってみたかった催事や場所,調べておきたかった事柄,聞きたかったお話,いつもの古巣の大学図書図書室,美味しい食事も楽しんだ。

積み上がっている宿題がさらに増えたけれど,コツコツ続けていくしかない。

とにかく今年の東京滞在もユニークなものになった。

その後,徳島に戻ってから,福井で研究発表。

アブダクション習得としてのプログラミング教育についてアイデアを披露してきた。

着想としては好意的な受け留めが多く,「帰納」「演繹と帰納」「アブダクション」という論理的思考の習得段階を,具体的に掘り下げていくのも悪くなさそうに思えた。

「プログラミング的思考」なる言葉に関して書き留めておきたいことは論稿に書けたので,あとは様々な実践や活動を前向きにとらえていこうという感じである。

東京滞在中にも,「オーセンティック」とか,「セルフ・ドリブン」とか,「自己コントロール感」といったキーワードに接することが多く,学習者である子供たちにとって「真性」なものとして社会やその中のコンピュータというものを掴まえて,学習課題として引き合わせてあげることが大事なのだろうなと考える。

そこから後片づけや実習訪問等でドタバタしながら卒業式を迎えた。

巣立つ最後のひとときを惜しむというような感じではなかったものの,それはある意味で手離れがうまくできたという良い結果なのだろう。あとはそれぞれの人生。元気にやってくれれば,それでいいのだと思う。

調達してきた面白そうな文献資料や,秋の学会年次大会に向けた準備,インターネットラジオ配信のプロモーション,いつものアルバイトなど,取り組むべきことはたくさんだ。

明日は職場のオープンキャンパス。頑張っていこう。

別れはさりげなく

私の在職する大学でも卒業式がありました。

卒業するのは,私が現所属になったのと同時に入学してきた学年でした。お互い1年生というこちらの勝手な同士意識と1年生担任として迎え入れるという縁で始まった4年間でした。

こうして4年の月日が過ぎ,晴れて卒業の日を迎えられること,喜ばしく思えます。

私は,学生に伝える事柄を「3つのこと」として絞ってきました。

  1. 正しいことができるよう気づき考えること
  2. 人に寄り添うこと
  3. 異なること,特に反対のことについても考えること

これを決めたのは今回の卒業学年が入学してきた時でした。そういう意味でも感慨深いのですが,実は今回の卒業で,この3つについての続きを話そうかと思っていたのです。

私は卒業生たちを1年生時に担当したものの,それ以降は担任変更もあり,授業で関わるだけ。3年生,4年生向けの授業を受け持っていないこともあり,多くの学生たちとは学内ですれ違うか,ほとんど会わずに時が流れてきました。

私の存在感があるのはせいぜい前半の2年くらいだけ。卒業までの後半2年間に積み重なる思い出の中に私の姿はさして現れないというのが大勢の学生たちの意識だろうと思います。そして,それが大学という場の当たり前だと思います。

「3つのこと」を常に話そうと決めたのは,そうなることが分かっていたからでした。

私のことが眼前から消えていても,私が「いつも決まって話をすること」は憶えていて欲しい。それが何だったのかハッキリ思い出せなくても,正しいとか何とかの3つのことを話していたなぁと思いを巡らせて欲しい。

そんな願いを込めて繰り返しているお話でした。

けれども,話そうと思っていた「続き」は,「3つのこと」の裏話ではなく,それが意味する事柄の方でした。

卒業生たちの多くが歩み始めようとする「先生」という仕事。そして,そうでない道に進む卒業生たちにとっても他者にとっての「自分」というものについて。これらを考える時に私が伝えたかったこと。

それは,私たちが多くの他者と「記憶で接する」ということです。

「3つのこと」は,人と接する時に大事にすべき事柄のように見えるかも知れません。

確かにそのような内容ではあるのですが,実のところ,その内容が3つのことである必然性は何もありません。人と接する時に大事にすべき中身は,別の考えがあってもよいのです。

むしろ重要なのは中身ではなく,私たちがその人と「眼前で接する時間」よりも「記憶で接する時間」の方が断然長いということの方なのです。

私たちは,相手から直接言われた言葉を,その直後から,記憶の中で反芻しながら受け取ろうとします。

相手が眼前にいるうちは,あるいは通信ツールを使ってやりとりできるうちは,反応を返し合うこともできるかも知れない。

しかし,私たちは遅かれ早かれ直接関わる関係の卒業を迎えます。そうなれば,私たちは相手と「記憶で接する」しかありません。

私たちが眼前の相手に対して行う事柄は,相手の記憶に留まる。

「先生」という仕事は,そういうことに深く関わる職業であるということです。

「3つのこと」は,そういう立場に立つ人間として考えたいことを絞り込んだものでした。もちろんそれは私という人間が考えたものであって,普遍的なものではありません。

そもそも,3つのことを完璧にできる人間なんて居やしません。3つのことが完璧にできないからこそ,常に意識したい。記憶というものを介して存在しようとする「先生」という立場に立つなら,そうありたい。それが私なりに伝えたかったことでした。

とはいえ,記憶に囚われて生き続ければ,それは単なる原理的・機械的な生き方でしかなくなってしまいます。そうならないことも個人個人が努力を続けなくてはなりません。

3つ目に「異なること,特に反対のことを考えること」を含めたのは,そうした囚われからの解放も忘れないで欲しいというシグナルです。私たちはいつでも自由なのですから。

卒業生たちが巣立つ日。

4年越しの「3つのこと」の続きを語る機会を待ちわびていましたが,残念ながら,その願いは最後に叶いませんでした。

4年前の関わりや記憶よりも,直近の関わりと記憶の方が勝っているのは当然です。卒業行事の中で,直接担当していない人間の割り当て時間は少なく,せいぜい「3つのこと」を思い出してもらうだけで時間切れとなりました。しかし,それも織り込み済みと言えば織り込み済み。

すでに彼ら彼女らとも「記憶で接する」時間が長かったわけですから,あとは新たな門出をお祝いし,応援するだけです。

卒業おめでとう。

研究発表「アブダクション習得としてのプログラミング教育の検討」

日本教育工学会 研究会発表 20190309

林向達(2019) アブダクション習得としてのプログラミング教育の検討.
日本教育工学会研究報告集, 19(1): 651-658.

報告集原稿
https://drive.google.com/file/d/1aAtpf6Aed5BGgni9yWbAtDyZZgM74x0a/view

発表スライド

アブダクション習得としてのプログラミング教育の検討 @Google Slides


20190221_Thu ACMは米国計算機学会じゃない

ACMという団体の会員更新。

そろそろ更新(renew)期限が来るので,メールとか郵送物でのお知らせが賑やかになっていた。「ACM Digital Library」という電子文献データベースサービスを使い続けたかったので更新。

更新画面を眺めながら,あらためて「ACM」って何の略だっけと確認すると,トレードマークの横に「Association for Computing Machinery」と書いてある。

日本語名称は「機械計算学会」とでもなりそうなのだが,Wikipediaに面白いことが書いてあった。

日本語に訳して「計算機械学会」とされることもあるが、こんにちこの訳語が用いられることはほとんどなく、通常は単に”ACM”という略称で呼ばれるのがもっぱらである。ACMの「A」は Association (学会、団体) の頭文字であるが、アメリカ数学会 (AMS) と混同して「米国計算機学会」と誤訳されることがある。

ああ,確かに自分も「米国計算機学会」って思っていた節がある。全然違ってたんだ。

でもこの勘違いって,わりと根深いのかも知れない。

検索してみると,あの東工大のプレスリリースで「米国計算機学会(ACM)」という表記をしてしまっているものがあるくらいだから,もしかしたらかつてはAmericaで通していた時期があったとか,そういう刷り込み要因があったのではないかとさえ思える。

それと,大問題は「Computing」である。

辞書的な日本語訳は

「コンピュータの使用」「計算」(小学館ランダムハウス英和大辞典)
「コンピュータの使用」「コンピューティング」「計算」「演算」(英辞郎)

とされている。

Computing Machineryになると,機械仕掛け(machinery)の計算(computing)ということで,それは「機械計算」とか「計算機」という日本語訳になるが,これが単独のcomputingとなった場合のよい日本語訳が,いまだ登場していない。ここでは「コンピューティング」とカタカナ語にして逃げておこう。

しかし,上の2語の組み合わせ(computing machinery)で,わざわざ機械仕掛けと修飾して「機械計算」という表現を持ち出していることから逆算すると,単なるコンピューティング(computing)は機械仕掛けじゃないものもあるって話にもなりそうだ。

さて…「コンピューティング」とは何なのか?

この問いはとても奥が深い。

実は,コンピューティングを科学研究分野として成立させるために,専門家の人々が「コンピューティングとは何か」を真剣に探究してきた歴史がある。その代表的な研究者がピーター・デニング氏であり,その成果は『Great Principles of Computing』という著作としてまとめられている。

それによると,たとえばコンピューティングの大原則は6つのカテゴリー「Communication」「Computation」「Recollection」「Coordination」「Evaluation」「Designe」に分かれていく。

それぞれのカテゴリーが焦点としているのは…

「Communication」は,地点間の確実な情報移動,

「Computation」は,計算の可不可について,

「Recollection」は,情報の表現や記号化とメディアからの取得,

「Coordination」は,いくつもの自律計算エージェントの効果的な利用,

「Evaluation」は,意図された計算を産出するシステムかどうかの計測,

「Designe」は,確実性と信頼性に向けたソフトウェアシステムの構造化,

とされていて,これらをまるまる一冊かけて記述している。専門分野として捉えようとすると,それだけ幅広く複雑な荒野を見渡さなくてはならないというわけである。

こういう構成要素を分析したアプローチだと深みにハマるしかないが,使途から考えるアプローチであればもう少し緩やかであってもよいのではないか。

所詮「コンピューティング」というカタカナ語で逃げざるを得ないなら,「コンピュータ技術が関わる」というくらいの括りで考えた方が,むしろスッキリするということだ。

「コンピューティング」とは「コンピュータ技術が関わるあれこれ」である。

だから,教科コンピューティングは,コンピュータが関わるあれこれを扱う教科くらいな捉え方になる。

昔の人は「計量的」とか「計算的」とかの語を苦労してあてはめようとしてきたけれど,そろそろ観念して「コンピューティング」という言葉を受け入れる方向に持っていった方がいいのかも知れない。