20181105_Mon

月曜1限の授業。

週の初めの授業ではあるものの,だからなのか,あっという間に終わる。今回は学習指導要領改訂の変遷を追っかけ,臨時教育審議会のところで時間切れとなった。

研究室で雑務処理。

東京で11月4日と5日に教育イノベーション協議会主催の「Edvation x Summit 2018」という催事があったようだ。

教育界隈という言葉で,教育に関わる人々のコミュニティを表してみても,そのコミュニティやメンバーは多様で,「教育」に関わっているからといって全員が繋がり合っているわけではない。それは「学会」や「学術」の世界に関わっているからといって研究者が全員繋がり合っているわけではないのと同じだ。

そんなわけで,私なりに20年くらいは教育界隈に携わっているが,「Edvation x Summit 2018」のような催事には依然として近寄り難さを感じたりする。

やっていることは素晴らしいと思う。

観客に撤すれば,催事の内容も活躍している個々人も魅力的だと思う。午後には経済産業省とボストンコンサルティンググループによる「「未来の教室」実証事業 中間報告会」がFacebook上で映像配信をしていたので,そこでのディスカッションを興味深く拝聴もした。それは観客の私にとっては楽しくはあった。

けれども,教育界隈に関わる人間として受け止めようとするとき,どこか突き抜けることを要求される空気感が漂い,そうした空気を共有する「内輪」へ加わることを余儀なくされそうでハードルを感じてしまうのだ。

所詮,どんなコミュニティも内輪になるのだから,ハードルや抵抗を感ずるのはお門違いとも言える。だから,本当の問題は,外部に対してどれだけ意識を向けたり配慮したりできているか,と言い換えられるかも知れない。

その基準に照らすと,こうした取り組みが「過去」あるいは「従来」に対して意図的に断絶を作り出そうとしていることが,どうしても距離感となって映るのだろうと思う。

チェンジメイカーを生み育む教育イノベーションを目指すことは,生きる力をもつ個人を生み育む教育改革を目指してきたことと,何がそんなに違うのか。

そのことをいつでも外部に対して説明する努力を怠らないようにしないと,いつまでも東京ローカルな内輪感が抜けないように思う。