英語の学力学習状況調査と中学校の教育用パソコン

文部科学省「平成31年度全国学力・学習状況調査 中学校英語「話すこと」調査」に向けて,調査手順を示す文書が2018年10月9日に公開されました。(平成31年度全国学力・学習状況調査 中学校英語「話すこと」調査に向けて

直後はそれほどでもなかったのですが,しばらくしてからFacebookあたりで,手順に示されているパソコン条件について話題になり,とあるブログ記事とツイートが文部科学大臣の目に触れるなど,少しばかり注目されています。

20180628「【全国学力テスト】英語予備調査、11%の学校でトラブル」(ReseMom)
20181001「全国学力調査で英語4技能調査 中3対象 3年に1回程度 PCやタブレット活用」(教育家庭新聞)
20181009「文部科学省「平成31年度全国学力・学習状況調査の中学校英語「話すこと」調査に向けて」を発表」(今日もワンステップ!)
20181010「ICT環境の確認求める 全国学力調査・中学英語」(教育新聞)
20181010「【全国学力テスト】H31年実施に向け英語「話すこと」調査、手順など公開」(ReseMom)

https://twitter.com/szsk_edu/status/1054117140926652416

公表された文書を見て私が思ったことは「担当される先生方が大変だろうなぁ」というものではありましたが,また同時に,文科省や専門会議の関係者がこれ以外の方法を示さなかった理由については「仕方ないのだろうなぁ」という諦め受容をしていたことも事実です。

手順が示している通り,調査実施のため「調査プログラム」をセッティングして動作させること(事前準備),動作させて確実に記録を残すこと(実施),記録を確実に回収すること(回収)を現在の中学校設備でどう実現するか,この3つが大きな課題です。もちろん適切に削除も必要です。

【事前準備】

「またWindows決め打ちか…」という感想が湧かなかったわけではありません。iOSやChromebookの露出も増えてきていますし,Webベースのオープンなコンピューティング環境というものへの意識も広がりつつある中で,Windows用の調査プログラムを開発し用いる仕様は,Society5.0を謳い始めた省庁としてどうなのか。旧態依然な雰囲気を醸し出します。

しかし,現実的な選択をしなければならないのも官公庁。

文科省自身が継続してくれている「学校における教育の情報化の実態等に関する調査」がありますが,この調査を踏まえればWindowsを前提とした計画を立てることに問題があったとは言えません。

中学校における教育用パソコンのOS種別をグラフ化したものです。

ご覧いただければ一目瞭然ですが,学校におけるWindowsプラットフォームのシェアは依然として9割以上(95.1%)です。併せてWindowsプラットフォーム内のバージョン比率も掲載しておきます。

この状況を前提に,調査プログラムをWindows専用プログラムで開発するか,あるいはWebベースで開発するかを選択する際は,たとえば費用対効果や想定される問題の回避を考えるわけです。

Windowsのバージョンが多様で,導入されている実際の端末のメモリやディスクの容量も多様,インターネット接続状況も(調査から見えない部分で)実に多様,動作時の実際的な条件も多様となると,その中で確実さが求められる「調査プログラム」を問題なく動作させる方法は,正直に言えば「ない」わけです。

Webベースの調査プログラムに関しては,Windows上のWebブラウザ事情(Internet Explorerは調査に使える?等)を考えれば,余計な問題を増やすことになり,確実性に乏しくなるのは目に見えています。結局のところWindows専用プログラムを組むのが一番妥当ということになるというのが落とし所のように思えます。

しかし,調査プログラムのインストールだけでも,許可や制限解除が必要な環境も珍しくなく,再起動するとインストール前の状態に環境復元する設定になっているところも多いため,決して理想的な落とし所ではないのも事実です。

【実施】

「話すこと」の音声データを録音して記録に残す。

単純な処理課題のようにも思えますが,多人数の音声データを確実に管理し,1人1人が調査を受ける毎に調査環境を初期状態に保ち,それを規定の調査時間内で繰り返し処理することは,前提条件が多様であることを思い返していただければ,容易な話ではないと同意してもらえるのではないかと思います。

「平成31年度 全国学力・学習状況調査の時間割のモデル」の補足には次のように書いてあります。

○「話すこと」調査の所要時間は、生徒1人当たり10〜15分程度(準備5〜10分程度を含む)。同一学級の生徒を一斉に調査でき、かつ調査対象学年の生徒全員が3単位時間以内で調査できるように設計されている。

平成31年度 全国学力・学習状況調査の時間割のモデル

先行する学級の生徒たちが調査を受け,後続する学級の生徒たちが調査を受けるまでの間5〜10分程度で,学級生徒数にもよりますが数十台ものパソコンを調査初期状態に戻すための作業(再起動でしょうか)を行なうことになります。

そうなると音声データを回収まで「どう残すか」は大問題です。

インターネット接続が保障もされず,仮に接続されていても回線速度が安定しているかも不明であるうえ,全国から一度に届くであろう音声データを安定して受信して保管するサーバーシステムを組むコストを考えると,音声データを送信してしまう方法は使えない。

USBメモリを使えないように制限を加えたパソコンも多いので,USBメモリを使って音声データを保存するやり方も使えない。

とりあえず個々のパソコンのローカルに保存してもらうしかないけれども,それさえ環境復元ソフトの導入があると叶わない…。公表された文書の裏側で苦悩している様子は手に取るように伝わってきます。

おそらくこの辺は,個別どうするのかを早めに検証して対処方法を見つけてもらうということになるのでしょう。方法を大きく変える時間的・資金的余裕があるとは言えないので,受託企業の性格的なことを考えると人海戦術で対応するしかないと考えているのかも知れません。

【回収】

調査と同時進行で音声データが送信提出されるわけではないので,調査中,パソコンのローカルに記録され残されたデータを個々の学校でUSBメモリに保存回収し,それを全国で回収するという2段階回収となるようです。

音声データをインターネット経由で直接提出させる方法もありそうですが,調査の解答用紙が別にありますので,これとUSBメモリを同時に従来の方法で返送した方が採点集計作業において効率がよいのかも知れません。

オープンな技術プラットフォームが普及するメリットを考えると,今後はWebベースで調査ができるように仕向けていくべきだと思います。しかし,学力・学習状況調査の実施が妨げられてしまうようなことがあっても困るわけです。

私もWindows決め打ちをして書かれる公文書は好ましくは感じません。しかし,この難しいタイミングにおいて出された文書としては,仕方ない部分もあると受け止めます。

今回の問題の背景に,まだまだWebベースやインターネット,オープンなサービスを利用することが難しい学校の縛られたICT環境の現状があること,それを変えることが業界構造として難しくなっている問題について,社会の問題意識が向いてくれることを望みます。

未来は来ない

妙に催事が多いキャンパスで次の講演仕事の準備をする。

端末一人一台とクラウドの現状についてお題を出されたので,書棚を回遊して関係しそうな文献をピックアップしていた。そんな過程で見田宗介『現代社会はどこへ向かうか』(岩波新書)を見つけ,読みかけだったので読み始めてしまった。

その新書では「ロジスティック曲線」が参照されて人間の歴史の3局面が示され,それをベースに理論が展開していく。ロジスティック曲線とは「S字カーブ」のことである。私も翻訳に参加した『情報時代の学校をデザインする』でもパラダイム転換を考える際に多段式ロジスティック曲線を参照しているので,見田氏の論の展開を興味深く読んだ。

人間の歴史をSカーブで表現するとき,真ん中の急激な上昇線部分を爆発期と考えた時,爆発期以前を第1期,爆発期を第2期,その後の安定平衡部分を第3期として局面を分ける(新書ではローマ数字表記)。新書では,第2期「爆発期」が「近代」であり,いまの私たちは第3期へと転回する曲がり角にさしかかろうとしている(第2期の最終ステージ)ということを社会調査データ等を手がかりにしながら確認していく。

詳しくは新書をお読みいただきたいが,後半に,第2局面の最終ステージという「現代」に〈未来への疎外〉と〈未来からの疎外〉という疎外の二重性があり,それが現代のリアリティ喪失に繋がっているという指摘があった。「現在生きていることの『意味』を、未来にある『目的』の内に求めるという精神において、この近代に向かう局面を主導してきた」(96頁)という第2期が最終局面に入ることで、目的が消失することによって未来から疎外される。一方で第2期の勢いのもと未来への疎外は残ったまま。その二重性を抱える現代。そこに世代を重ねることによって私たちの視界も微妙に異なってくることが序章で示されている。

それで,総務省がやっていた「フューチャースクール推進事業」と,いま経済産業省がやっている「『未来の教室』実証事業」という2つの「未来」が浮かんだ。

総務省の未来が「近代」の未来だとすれば,経産省の未来は「現代」の未来といってもよいのかも知れない。

そういう意味で,総務省の未来はナイーブな未来だったし,結果的に1人1台に端末を配布するという物質的な側面に注目が集まった事業であったことが,いかにも「近代」である。結局のところ,全国の学校に1人1台端末という未来は約束された時期には起きなかった。

経産省の未来は,準備の成果もあってか「現代」的な未来を掲げていると思う。けれど「現代」であるがゆえの疎外の二重性の中にあって,見田氏の言う「高原の見晴らし」をどう切り開くのかは試行錯誤を始めたところだとも言える。関係する人たちは,見田氏が示す新しい世界創造のための公準「ポジティブ」「ダイバーシティ」「コンサマトリー」を好みそうだから,長い目で見れば変革の一歩を刻むのだろう。

ロジスティック曲線に絡んで,もし私たち人間(サピエンス)がパラダイム転換を果たし得るのだとすれば,『ホモ・デウス』の議論につながっていくのだろうかと,ちょっと気になっている。まだ前著を読み切ってないので,早く終わらせて読んでみたい。

真夜中の教育ICT談義

ときどき触れることもあるが、おおっぴらに告知はしてこなかった。

月に一回、教育とICT界隈の四方山話を、スナックのカウンター席での談義に見立てて、動画配信する活動をしている。私は常連客を演じている。

要するに、ビデオ会議アプリを使って雑談している様子を、YouTubeにそのまま流して見てもらっているだけである。そこにFacebookを組み合わせて、視聴者同士がああでもないこうでもないとやり取りする場も設けている。ビデオ会議がカウンター席、Facebookがボックス席で一つのスナック店という洒落である。

その店を「スナック・ネル(SnackNEL」と命名し、真夜中22時から営業を始めて、この度5年目に突入した。

過去の様子はすべてアーカイブに残っている。様々なゲストの方に参加していただきながら、他ではなかなか聞けない話、本当のところの話を寝掘り菜掘り聞いては、考えを交わらせようと悪戦苦闘、七転八倒、支離滅裂、荒唐無稽にしゃべり続けた記録である。

マンネリ化することは、始めた当初から想定済み。そういう停滞感や倦怠感を退けて、ひたすらに議論の場を継続することが大事ではないかという、その一点だけを参加者の共通理解として、真夜中の教育ICT談義が続いてきた。

5年目を迎え、私たちの語らいの場は、営業日が不規則ながらも、月一回のペースで続く予定である。今後もEdTech周辺の方々やら、教育分野の方々をゲストとしてカウンター席に迎えつつ、この界隈を考え続けたい。常連客として、皆様のご来店をお待ちしている。

この店のマスターは、さらに新しい取り組みも考えているようなので、それはそれで楽しみである。

教員のメールアドレス

2018年8月29日に「学校における教育の情報化の実態等に関する調査(平成29年度)」の速報値が公表されました。
コンピュータを始めとした機器の設置台数やインターネット接続状況,および,教員のICT活用指導力について悉皆調査したものです。

この実態調査は昭和62年から始まっていますので,調査結果を経年的に追うことは,ほぼ平成30年間の教育情報化の変遷を追うことだと言えます。もっとも実態調査には,質問項目設定や調査実施実態,調査結果処理などに不明点や課題が多く,日本の学校情報化のおおまかな傾向を知ることはできても,細かな数値を検討することにはあまり向かない問題点も残ります。

とはいえ,こうした実態調査の公表内容から,文部科学省といった行政側が教育の情報化について何を着目しているのか知ることはできます。

たとえば,平成29年度調査で「SIM内蔵PC等」についての質問項目が追加されたことが速報値資料からわかります。つまり「SIM内蔵」端末がこれから学校現場に入っていくことを想定していることになります。

また,昨年度の調査結果報告から周辺機器の導入台数が削除されました。プリンタやデジタルカメラといった周辺機器に関しては,重視しなくなったということを読みとることができます。

調査結果の公表方法にも,文部科学省や関係者の意図が働いています。たとえば,なかなか進まないICT環境整備を奨励するために,昨年から都道府県と市町村ごとの整備率を比較できるように資料公表するようになりました。

比較の指標は「教育用コンピュータ1台当たりの児童生徒数」「普通教室の無線LAN整備率」「超高速インターネット接続率(30Mbps以上)」「普通教室の電子黒板整備率」「統合型校務支援システム整備率」「教員のICT活用指導力」が取り上げられています。

これらの指標が指し示す環境整備は確かに重要であり,新しい学習指導要領に基づく学校教育を支える基盤としても求められています。

ただ,あらためて考えてみると,過去ずっとこのようなタイプの環境整備を求め続けてきたように思えますし,内容は「ハコモノ」発想といえなくもない。

かつてコンピュータのハードウェアは予算化され導入してみたものの,ソフトウェアまで手が回らなかったことを反省し,ソフトウェア予算を重視する流れが生まれたことがありました。実態調査もソフトウェアに関する項目が加えられていたのはそういう流れがあったからです。

いまはインターネットの時代となって,私たちは何かしらのアカウントを利用することが当たり前となりました。たとえばメールアドレスについても実態調査には項目が設定され調査結果が公表されています(上図)(経年データ)。

さて,平成も最後となるこの機会,全教員にメールアドレス付与することを採用自治体(主に都道府県レベル)に必須化するよう勧告すべきと考えます。

現在は小中高校等の全教員数でいうと67.8%がメールアドレスを付与されている状況。
学校別では,小学校で57.3%,中学校で57.1%,高校で95.3%,特別支援学校で90.5%という付与率です。

単に付与されればよいというわけではありません。

この調査では「どこから付与されたか」がわかりません。

ご存知の通り,教員異動は市町村をまたいで都道府県内を動くことがあります。これは県費職員として採用され,異動ごとにそれぞれの市町村自治体に所属する場合があるからです(実際の教員採用や雇用形態は様々です)。
市町村レベルでメールアドレス発行すると異動のたびに,アドレス変更手続きが発生することになり負担です。そもそもメールアドレスを発行する余力の無い市町村もあります。

これを都道府県レベルで発行する方針にすれば,市町村の違いなく一元的に都道府県下の全教員がメールアドレスを利用できることになります。すでに大分や埼玉でこうした事例が展開しています。

ある程度の規模の企業なら,入社すればその企業でメールアドレスが発行され付与されるのは当たり前の時代です。情報活用能力を育成することが目指されているご時世でもあるのですから,教員一人一人がメールアドレスを付与されるという状況に置かれて,それをどう扱うべきかを自分たちが校務等の中で経験的に学び蓄積していくことも重要です。

教員がメールアドレスを持って何をするのか,懐疑的に考える人々が多いことは承知しています。

たとえば,教員がメールアドレスを持つと,保護者からの連絡を受け取らなくてはならなくなり,対応に追われてしまうのではないかという想像が膨らむのが一般的に多いようです。

しかし,教員のメールアドレス所有,すなわち,保護者に公開してメール受信という流れを選択する必要性や必然性はありません。

教員メールアドレスは,校務での利用を中心にデザインしつつ,研修や研究関係の対外連絡用,教育・教材サービス利用の登録用などに活用することを奨励していけばよいのです。児童生徒や保護者からの連絡の受け取りは別の方法を用意することで全体のバランスをとるべきです。

ICT環境整備は,ハードウェアを揃えることが目に見えることもあって分かりやすいのかも知れません。しかし,クラウドが当たり前になってきた今日では,端末整備よりもアカウント整備をどうするかが遥かに重要になってきています。

教員のメールアドレス(メールアカウント)をどのように設計して,どのようにインフラとして提供するのか。この問題は遅かれ早かれ直面する問題なのですから,文部科学省・総務省・経済産業省はもっと明確に都道府県レベルでの教育職員へのメールアカウント付与を勧告すべきです。

平成30年間を振り返って,教育情報化が螺旋階段を上りつつも,なかなか上手くいかないのはどうしてなのかを考えると,こうした基本的なステップを避けたままだからだと思わざるを得ないのです。

英語教育と似たような途をゆくか

「プログラミング教育」のゆく途を小学校英語から見通そうとするやり方があります。学習指導要領の平成29年改訂において小学校では「外国語」が教科化されました。

外国語とされていますが,学習指導要領は各言語を「英語」と「その他の外国語」と大別した構成で記述したことから,特別な理由がない限りは英語を中心として取り組まれることになります。

あらためて,英語教育からプログラミング教育(あるいは将来的にコンピューティング教育…となりますかどうか)を考えてみるのも面白いでしょう。

このブログでもご紹介した日本教育工学会のプログラミング教育に関するシンポジウムの場で,東京学芸大学の高橋先生は,プログラミング教育の行く末を考えるには英語教育の辿ってきたステップを参考にするとよいと述べていました。

この指摘はそのシンポジウムが初出というわけではなく,高橋先生自体は何年も前から機会ある毎に述べられていましたし,教科化のステップを考える際には他でもよく言及されることです。

つまり,まず「先進的な取り組み」があって,それが徐々に認知され「課程外の取り組みとして波及」し,「学術分野での研究」とともに「研究開発校の研究課題」として採用されて,「課程内での活動時間」が確保されたのちに,ようやく「教科化」へと至る。おおよそこれが教科化への道のりです。

小学校外国語は,中学校・高校の英語科という長い歴史を持つ接続先があるというアドバンテージがありましたが,研究開発校での取り組みや「外国語活動」のステップを踏みつつ,晴れて「外国語」として教科化が相成ったわけです。

しかし,この小学校英語が「課程内」に取り入れられる(必修化)に際して,その是否について激しい議論が展開されたことをご記憶の方もいらっしゃると思います。

当時の議論における文献として有名なのは大津由紀雄氏が編著した『小学校での英語教育は必要か』『小学校での英語教育は必要ない!』『日本の英語教育に必要なこと』(いずれも慶應義塾大学出版会)です。書名は否定的な文言ですが,内容はシンポジウムの記録であり,様々な立場の論者による議論になっています。

これをプログラミング教育の文脈に置き換えれば,タイミングとしては今(2018年)頃にシンポジウムが行なわれて,賛否の議論を闘わせ,それを書籍として世に問うたということになります。

しかし,英語教育の世界で起こっていた賛否の議論のようなものが,プログラミング教育の世界で巻き起こっているか…と問われると,書籍化できるほどのボリュームでは行なわれていないというのが正直な感触です。

プログラミング教育における賛否の議論が希薄なこと。

これには考えられる理由があります。

長い歴史を持つ英語教育と比して,プログラミング教育にはそもそも,議論できるほどの歴史も蓄積もないというのが一つの理由。

「英語の必要性は分かるけど,プログラミングの必要性か分からない」と言われるのも,歴史と蓄積の違いが原因と言ってよいかも知れません。

伊村元道『日本の英語教育200年』(大修館書店)という書名の文献があるくらいです。日本人と英語教育の付き合いは長い。そこまで長い歴史に目をやらずとも,私たち自身が「受験英語」と付き合った人生経験を思い返せば,腐れ縁とでもいえそうな関係を持っていることが分かります。

翻って,プログラミングと私たちの関係はどうでしょうか。

あらためて,多くの電子機器や電化製品等が私たちの日常生活を支えてくれていることを考えると,付き合いは十分です。プログラミング教育の手引にも「コンピュータは人々の生活の様々な場面で活用されています」と書かれていますから,むしろ英語より関わりは深いかも知れません。

しかし,もう私たちは薄々わかっています。付き合いがあるのは電子機器や電化製品などであって,プログラミングではないこと。生活の様々な場面で活用されているのもコンピュータであって,プログラミングではないこと。仮に五十歩ほど譲っても,私たちとの関わりがあるのは「プログラム」や「ソフトウェア」であって「プログラミング」ではないのです。

英語教育は既得ポジションがあったがゆえに歴史と蓄積を持ち,そうでないプログラミング教育はそもそも議論のしようがないのです。

問題は,議論が起こせもしない状態にある教育が,学校教育の取り込まれていく動きをどう考えるかです。

寺沢拓敬『「なんで英語やるの?」の戦後史』(研究社)などからも分かるように,英語教育だって自明だったわけではありません。なのに既得ポジションが与えられ,長い歴史が積みあがった。であればプログラミング教育だって,まずはスルッと始めてしまって長い歴史をかけて修正すればよいだけのことじゃないか。そういう参考の仕方もあり得るとは思います。

とはいえ,それは「プログラミング教育」という形であるべきだったか。そのような入口とならざるを得ない事情があったとしても,それを一方で批判的に理解するためのくさびを打っておくことも必要ではないか。

学校現場を支える側では,おそらく前者に近いスタンスをとるのが現実的でしょう。最初から完璧は望めないのですから。一方で,学術的な側面からは後者のスタンスをとる問いが投げかけられなければならないと思います。この文章を書いている私は後者の位置に立っているといえます。

ところで,振り返ると英語学習ブームと呼べるものがいくつかありました。

今でこそ当たり前となっている英会話塾も,それ自体が英会話ブームの産物でした。「駅前留学」というCMフレーズをご記憶の方も多いと思います。

他にも思い付くままに挙げると,ラジオやテレビの「英語講座」(語学講座),英単語暗記術,CD付き英語参考書,英文小説読書,子ども英語会話塾,インターナショナルスクール,短期留学,などなど。

英語関連書籍もいろいろで,『日本人の英語』や『伊藤の英文解釈』,『豆単』『キクタン』『英語耳』『速読英単語』,『ビッグ・ファット・キャット』とか,『英語で日記を書いてみる』とか,『ドラゴン・イングリッシュ』とか,『チャート』『Forest』『ポレポレ』などなど。

またかつて別冊宝島というムックには,『道具としての英語』という人気シリーズがあり,学校英語や受験英語とはまた違った雰囲気で英語の学習を誘っていました。同じく別冊宝島の『欠陥英和辞典の研究』というムックが発端となった英語辞書論争は,当時のマスコミにも取り上げられて注目を集めたりもしました。

そうした様々な通過地点を経て,今日の英語教育があるといえばそうなのですが,そんな英語教育がよりよき道のりを歩んできたといえるのかは,正直なところわかりません。

プログラミングやコンピューティングの教育が,これからどんな道のりを辿るのか。願わくは,よりよき選択ができるよう進みたいものです。