教育の遠さと近さ

4月7日夜に緊急事態宣言が7都道府県に対し発出されてから間もなく1ヶ月。4月16日には対象が全国に広げられていました。

学校が休校措置に関わる混乱は,2月27日の新型コロナウイルス感染症対策本部の場で示された全国一斉臨時休校の要請に始まり,いま現在も続いています。

4月30日には,5月6日までとされた緊急事態宣言の延長の考えが示され,関係方面の調整が進行しているようです。

私自身も,この状況下で,遠隔教育を実施する事態に直面し,大学が以前より契約しているGoogleクラスルームという支援システムをすべての授業科目に採用する形で授業を開始しています。

考えなければならない課題は山積したままの見切り発車ではありますし,学生達にはGoogleクラスルームを使うこと以外,各授業で違うやり方に慣れてもらう面倒をかけることになりますが,今のところ課題配布中心型が多そうだということもあって,大きなトラブルは出ていません。

一部の授業では,動画教材やzoom等のテレカンファレンス・ツールを利用した双方向授業を試みたり,私のようにスライドと音声解説を組み合わせるパターンもあるといったわりと緩い雰囲気です。

問題は,こんな形で始まった”教授”や”学習”は持続するのか,学習の目標達成を評価する段取りをどうするのかといった所。通信教育や放送教育の世界にはそれなりのノウハウや経験があるのでしょうけれど,それを私たちが共有できていない現実もあって,あるいは車輪の再発明をやっているのかも知れません。

教育を歴史・文化的に捉え返せば,そもそも家族関係のもとで形成される「家庭」における養育や教育が原初であり,近しい者との関係形成を通して生活知を学んでいくのが,そのイメージであると思います。

教育を担う責任主体が,家庭から社会へと移行するのは,社会にとって教育された人の存在がいろいろな意味で重要となり,教育を家庭だけで担うことが難しくなってきたことが背景にあります。

地域の共同体の中に,学習者を集めて教授する場(学校)が生まれ,そこからずっと対面による教育が続いてきました。

一方,学習者が遠出可能な年齢にまで成長すれば,別の都市へと移動して教えを授かることもありました。実際,大学の歴史では,専門知識を学ぶために個人や集団が都市を移動することもあったといいます。

人の動きだけではありません。知識自体もまた,人々が住む地を繋いで移動していったとされています。かつて私立専門学校が講義登録者に向けて発行したとされる講義録が,遠隔教育の教科書の走りとされています。

斯様に教育は,人々が専門知識を得るために,学び手の物理的移動をいとわず,やがて印刷物等のメディアによって知識をより広範囲に移動させていくことで,その需要を満たそうとしました。

依然として,対面による知の鍛錬は,対話や問答を通した知の獲得形態として極めて強固に支持されています。一方で,遠隔教育あるいは通信教育は,あくまでも対面が叶わない場合の補助的な位置づけであり,スクーリングといった対面の機会を可能な限り確保することが求められています。

今回の新型コロナウェルス感染に関する事態によって,対面による授業や活動が制限され,学校の場が物理的な面会に支えられていたことをあらためて確認することとなりました。

一方で,面会を果たせない事態に対して、何ら備えをしていなかったこと。つまり、その場を去れば、その関係性をほぼ失うこと(それを私たちは卒業と言ってみたりするわけですが)になることもあらためて浮き彫りにしました。

直面してしまった事態に対し,ICTの活用が必要であるとの声も多く上がり,文部科学省からの事務連絡においても,児童生徒学生の学びを保証するためICTやオンライン授業などを従来の考え方に捉われず積極的に活用するよう何度も取り上げられるに至っています。

とはいえ,日本の学校教育関係者のほとんどがICT活用を真正面から取り組むことなく過ごしてきたため,物理的面会に最適化された近接的な距離感を,オンラインやネットワーク特有の距離感に置き換えることに苦労しています。

それは,対面という近距離が持っていた遠さに慣れきって,遠隔地を結ぶメディアがもたらす妙な接触感や拘束感に無防備であること。それゆえ,ネットの世界といったものを極力排除しようとしてきたことからもわかります。

ただ,学校で長く続いてきた排除の歴史の間に,この妙な近接感と拘束感をものにしてきたのが娯楽や消費の世界です。ネットの世界に教育的なものが限られているのに比して,商業的なものは膨大なのは,単純にネット等のメディアと対峙した時間の長さの違いです。

まもなく感染確認者数が下降傾向に入り,いずれは条件付きとはいえ学校の段階的な再開も実施されると思います。

今後どのような形になろうと,児童生徒学生の学びが前進することを優先的に考えることは変わりませんが,今回の事態で経験したことを,なるべく活かす形で学校教育が変わっていくことを願います。