教職は単なるコンテンツ・デリバリー業ではない

コロナ禍がもたらした社会活動のブロッキングによって,私たちは日頃の活動のいろんな側面をメタ的に見る機会を得た。

学校と学校教育も,前提や前例を踏襲し得ない事態によって,現場で混乱をきたしているだけでなく,家庭にとっては学校の役割を再認識する機会になったであろうし,先生方にとっては学校が児童生徒が通学してくれるという極当たり前のことで成立していた場なのだと,その有り難さを感じる機会となった。

緊急事態宣言は依然継続中であるけれども,地域の実情に応じて段階的な学校再開の目処をつけられるようになってきたことで,喧しいのは,お休みした分をどう取り戻すのかといった話だ。

年度末の終わりを待たずに始まってしまった臨時休校とその後の長い休校措置によって,新年度から始まるはずの事柄がストップした状態に陥り,その意味で学校教育活動の開始が後ろへとズレ続けている。

想定していたスケジュールに照らせば「遅れている」ことになるし,前代未聞の事態への対応が地域や学校ごとに異なることでの「格差」なるものが生まれているとも指摘されている。

事態を直観的に懸念した先生達がとった行動は,授業が行なえない代わりを至急用意することであり,たとえば,家庭で学習するための学習プリントを一生懸命作成・準備する作業だった。

また「学びを止めるな」を合言葉に様々な学習コンテンツを提供するサイトやサービスのリンクが集められ,経済産業省「#学びを止めない未来の教室」であるとか,文部科学省「子供の学び応援サイト」が立ち上がるといった動きに至って,現在も様々なコンテンツが紹介されている。

いまも学校再開時期をにらみながら,授業時数をどのように確保するのか,全国の先生達が学年暦とにらめっこしながら悩んでいるだろう。

この緊急事態時に出された様々な特例的措置が,ほぼすべて時限的な扱いで,通常措置の規定になんら変更がないことを考えれば,再開時期と授業実施がズレにズレるほど,学びは「遅れている」と見なされ,「格差が生じている」と言われることが明らか。

日本の学校関係者の習性として,外部批判を回避し,事無きを優先して,既定路線に従順であることを良しとするところからして,とにかく「挽回する」ことを第一使命にしてしまう様相は,理解できないわけではない。

けれども,この機にいま一度,教育とは何か,学習とは何かを考えてみる必要はないのだろうか。

想定外の事態に直面して,すっかり吹っ飛んでしまったかも知れないが,小学校においては今年度から「平成29年改訂 学習指導要領」にもとづく学校教育が本格開始するタイミングであった。

つまり,私たちは,どんな教育を目指そうとしていたのか,どんな学習を誘おうとしていたのか,そういう問いをもう一度この状況下で思い出して,考え直してみる必要がある。

平成29年改訂の学習指導要領は,教育内容から資質・能力へと力のベクトルを向けて転換を図ろうとしたものだ。

「コンテンツ(教育内容)からコンピテンシー(資質・能力)へ」に関しては,以前のブログ記事でも奈須先生の文献をもとに紹介していた。

教員は,教育内容を伝達する配達業という側面が確かにある。

どんなに知識がそこかしこに存在していたとしても,それを教育内容として包んで届ける行為が伴わなければ,容易には学びに結びつかない。とりわけ年齢が若ければ若いほど,そのような教育内容の配達は重要になる。

けれども,従来の知識伝達は,学習者があんぐりと口を開けて待っているかのような想定で,口元にア〜ンしてあげるところまでお膳立てすることが知識の伝達かのように捉えらてきた。

しかし,私たちが望んでいる学習者像は,そうやって口元にやって来る知識を美味しく頬張り存分に吸収するような存在だろうか。

私たちが望んでいるのは「能動的学習者」ではなかったか。

そのような学習者を育成するために,教員は単なるコンテンツ・デリバリーを続けているわけにはいかない。いつまでも口元にア〜ンしてあげるような仕事を続けるわけにはいかない。

自分自身でフャークやナイフ,箸や蓮華を駆使して,美味しい知識を食していくことも身につけていかなくてはならない。そのための能力が,言語能力や情報活用能力,問題発見と解決能力であるなら,それを育まなくてはならない。

資質・能力(コンピテンシー)への方向は,こういうことだったはずである。

平時なら傾聴に値するかも知れないが,この緊急時に言われてもねぇ…なるほど,そんな受け留めをされるのかも知れない。

平時にも見過ごされてきた格差が,この緊急事態にさらに拡大されてしまう問題を考えると,まずは従前からの知識学力を優先して考えるという方策は,確かに選択肢として重要に思う。

ただ,問題にすべき格差は,単に学習進度や習得の多少を基準に比較するようなものの話であろうか。

結局,それとて,緊急事態が緩和され,学校が以前に近く再開された時に,学校教育を縛っているものが何一つ変わらない現実に対して,単にお口をあんぐり開けて並ぼうとしているだけではないのか。

教職は,もはや単なるコンテンツ・デリバリー業ではない。どのような事態に対しても能動的に関わるコンピテンシーを養うこともセットに届けていかなくてはならない。そのようなコンテクスト・デザイナーとしての生業を模索していくべきだろう。

私たちを悩ませるコロナ禍が,やがて日常に埋没し始めた時,日本の学校教育の日常的メンタリティが従前と比べて劇的に変化しているとは,正直なところ予想できない。

混乱に乗じて増大していくのは,既得優位性であることが多い。それが誰にとって都合がよいのかが複雑になっている分,私たちもその恩恵にあずかれることがあるのだろうが,その裏側にはそうでない人たちもいる。

教職は,この機にどうあるべきなのか。コンテンツのみならずコンテクストをも縦横無尽に動かして考えていく必要があると思う。