20181029_Mon

デジタルに対してどう向かい合うべきか。

このところの機器や技術がもたらす事態を眺めていると,その進化あるいは未熟さのどちらをも要因として,私たちの認識をこれまで以上に惑わし,危険水準に連れ込もうとしているように感じられる。

アナログとデジタルの境が見えなくなって,私たちの意識や文化に大きな影響を与えてしまうのではないかという問題意識は,目新しいどころか今では使い古されたもののように聞こえる。けれども,デジタルが表現するものの影響力が一段と強くなってきた昨今だからこそ,今一度,問い直すことが必要な気がする。

分かりやすいところでいえば,デジタル画像・映像処理。

先週,米国でAdobe MAXというアドビ社のイベントが開催された。ユーザーとの交流や製品・技術情報提供の場として毎年催されている。そこで披露された開発中の技術は,アドビ社が手がける画像や映像等分野の先進的な処理技術であり,ディープラーニングの成果を応用して元データから魅力的なコンテンツを引き出す技術だった。

しかし,そこで生み出されたコンテンツは,元データから生成されたとはいえ,どこからかはリアルを離れてフェイクを抱え込んだものになっている。そして,その分水嶺がどこにあるのかを確固として言及することが,今まで以上に難しくなっていることを感じた。

この問題に私が最初に触れたのは『リコンフィギュアード・アイ』(アスキー1994)であった。原著が執筆された当時1992年はPhotoshop2.0時代で,高解像度のデジタル画像を扱うのは難しかった時代である。そのためこの本では,当時まだまだ主役であった(アナログ)写真における視覚受容の文化的な意味を議論するところから掘り下げられており,「意図と人為性」の章では,写真が誇ってきた信憑性について様々な手法事例を通して疑問を投げかけていた。

アナログ時代にもある種の意図と巧みな編集によってフェイクなものはあった。それでもそこには微かな綻びや痕跡が残されていて見抜けるものもあった。しかし,デジタルになったらどうだろう。デジタル処理を人間がする分にはまだ痕跡は残るかも知れないが,その処理を膨大な学習をしたAIが担ったら。

何をもってオリジナルやコピーと見做すべきか。

そもそも原初がデジタルで始まったものに囲まれた世界で,私たちが認識可能な分水嶺を残すべきであるのか,残るものなのか,もはや存在するものなのか。問いかけ自体が変容を迫られ始めて,もはや問いさえ見失いかねない気がした。