20181126_Mon

授業と学生対応。

教育方法・技術論は,インストラクショナル・デザインについて。ガニェ『学習の条件』に書かれた事柄を紹介した。「学習成果の5分類」や「9教授事象」は定番中の定番か。とはいえ,これをビギナーに解説するには,具体的な場面を想起させながらでないとなかなか難しい。分かってしまえばなんてこともないが,そこに至るまでの橋渡しはこちらの仕事だ。

職場の大学院の試験業務と,ゼミ3年生が研究室にやって来て卒業研究に向けて相談してくれたので,それ関連の雑談などをした。

20181119_Mon

気になる本『敵とのコラボレーション』(英治出版)を読んだ。

日頃,外部の人とやりとりする機会が少なく,議論する相手も身近にはいないので,独り思索を巡らすことで考えを深めることがほとんどである。本来であれば,他者とのやりとりで議論を膨らまし,認識を深めるのが理想的なのだが,相手がいない以上,文献資料を土台として,テーマを多角的に検討するしかない。

独りで議論を展開する場合,批判対象(仮想敵)を設定した方が思索を活性化しやすい。

他者の主張に同調してみるだけでなく,主張を批判的に捉え直すことで,見えなかったものが見えてくるかも知れない。そうやって考えを深めたりするのだが,これをやり過ぎるとこの本で言うところの「敵化」(enemyfying)をする心的傾向が強くなってしまう。敵化症候群だ。

筆者の言うことには,従来型コラボレーションでは窮屈であり,敵化症候群を生じさせやすい。そこで本書が提示するのが「ストレッチ・コラボレーション」である。「対立とつながりを受容すること」「進むべき道を実験すること」「ゲームに足を踏み入れること」の三つのストレッチを含んだものとされる。

決して目から鱗の方法というわけではなく,全てをコントロールしようと思わず,名前の通り柔軟に押し引きを当事者として継続しましょうという提案である。付かず離れずの距離感を構築・維持できれば光明がさすと言った感じだ。

やはり当事者の立ち位置にどうやって至るのかという問題は残る。その辺が読後感として物足りなかった。

20181112_Mon

第二世代Apple Pencilが届いた。

「りん研究室」の刻印入りである。残念ながら本体系のハードウェアを買う資金も理由もないので,今回はこれで我慢する。第二世代Apple Pencilだけが届いて気がついた。今回は単独で充電ができない。常に本体と一緒の前提は,個人使用にとっては改良だが,まとめて管理する場合にはデメリットもありそうだ。

授業を終えて調べもの作業。小学校での講話のために情報を確認しないと。

20181105_Mon

月曜1限の授業。

週の初めの授業ではあるものの,だからなのか,あっという間に終わる。今回は学習指導要領改訂の変遷を追っかけ,臨時教育審議会のところで時間切れとなった。

研究室で雑務処理。

東京で11月4日と5日に教育イノベーション協議会主催の「Edvation x Summit 2018」という催事があったようだ。

教育界隈という言葉で,教育に関わる人々のコミュニティを表してみても,そのコミュニティやメンバーは多様で,「教育」に関わっているからといって全員が繋がり合っているわけではない。それは「学会」や「学術」の世界に関わっているからといって研究者が全員繋がり合っているわけではないのと同じだ。

そんなわけで,私なりに20年くらいは教育界隈に携わっているが,「Edvation x Summit 2018」のような催事には依然として近寄り難さを感じたりする。

やっていることは素晴らしいと思う。

観客に撤すれば,催事の内容も活躍している個々人も魅力的だと思う。午後には経済産業省とボストンコンサルティンググループによる「「未来の教室」実証事業 中間報告会」がFacebook上で映像配信をしていたので,そこでのディスカッションを興味深く拝聴もした。それは観客の私にとっては楽しくはあった。

けれども,教育界隈に関わる人間として受け止めようとするとき,どこか突き抜けることを要求される空気感が漂い,そうした空気を共有する「内輪」へ加わることを余儀なくされそうでハードルを感じてしまうのだ。

所詮,どんなコミュニティも内輪になるのだから,ハードルや抵抗を感ずるのはお門違いとも言える。だから,本当の問題は,外部に対してどれだけ意識を向けたり配慮したりできているか,と言い換えられるかも知れない。

その基準に照らすと,こうした取り組みが「過去」あるいは「従来」に対して意図的に断絶を作り出そうとしていることが,どうしても距離感となって映るのだろうと思う。

チェンジメイカーを生み育む教育イノベーションを目指すことは,生きる力をもつ個人を生み育む教育改革を目指してきたことと,何がそんなに違うのか。

そのことをいつでも外部に対して説明する努力を怠らないようにしないと,いつまでも東京ローカルな内輪感が抜けないように思う。

20181029_Mon

デジタルに対してどう向かい合うべきか。

このところの機器や技術がもたらす事態を眺めていると,その進化あるいは未熟さのどちらをも要因として,私たちの認識をこれまで以上に惑わし,危険水準に連れ込もうとしているように感じられる。

アナログとデジタルの境が見えなくなって,私たちの意識や文化に大きな影響を与えてしまうのではないかという問題意識は,目新しいどころか今では使い古されたもののように聞こえる。けれども,デジタルが表現するものの影響力が一段と強くなってきた昨今だからこそ,今一度,問い直すことが必要な気がする。

分かりやすいところでいえば,デジタル画像・映像処理。

先週,米国でAdobe MAXというアドビ社のイベントが開催された。ユーザーとの交流や製品・技術情報提供の場として毎年催されている。そこで披露された開発中の技術は,アドビ社が手がける画像や映像等分野の先進的な処理技術であり,ディープラーニングの成果を応用して元データから魅力的なコンテンツを引き出す技術だった。

しかし,そこで生み出されたコンテンツは,元データから生成されたとはいえ,どこからかはリアルを離れてフェイクを抱え込んだものになっている。そして,その分水嶺がどこにあるのかを確固として言及することが,今まで以上に難しくなっていることを感じた。

この問題に私が最初に触れたのは『リコンフィギュアード・アイ』(アスキー1994)であった。原著が執筆された当時1992年はPhotoshop2.0時代で,高解像度のデジタル画像を扱うのは難しかった時代である。そのためこの本では,当時まだまだ主役であった(アナログ)写真における視覚受容の文化的な意味を議論するところから掘り下げられており,「意図と人為性」の章では,写真が誇ってきた信憑性について様々な手法事例を通して疑問を投げかけていた。

アナログ時代にもある種の意図と巧みな編集によってフェイクなものはあった。それでもそこには微かな綻びや痕跡が残されていて見抜けるものもあった。しかし,デジタルになったらどうだろう。デジタル処理を人間がする分にはまだ痕跡は残るかも知れないが,その処理を膨大な学習をしたAIが担ったら。

何をもってオリジナルやコピーと見做すべきか。

そもそも原初がデジタルで始まったものに囲まれた世界で,私たちが認識可能な分水嶺を残すべきであるのか,残るものなのか,もはや存在するものなのか。問いかけ自体が変容を迫られ始めて,もはや問いさえ見失いかねない気がした。