お悔み申し上げます

 認知科学者として世界的に活躍されてきた三宅なほみ先生が,2015年5月29日にご逝去されたとの報に接しました。信頼できる方々の情報網で流れている報なので,本当だと思います。しかし,だとすれば私たちはとても貴重な人物を失ってしまったことになり,言葉もありません。

 あの時躊躇わずお話しをさせていただいていたなら…そう後悔するばかりです。

 深い哀悼の意を表します。

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 写真は,私が最後に三宅先生に一番近づいた時(20140317)のものです。

配属が変わって

 平成27年度が始まって,今日まで慌ただしい日々が続いていました。4月中と5月のGW連休は,なんだかんだといろいろあってブログの更新もままなりませんでした。

 今年度より徳島文理大学 人間生活学部 児童学科に配属されました。昨年度までは短期大学部に配属されていたのですが,諸般の事情で異動となったのです。短期大学から大学へと変わったことになるので,教育研究機関番号で区別している側からすれば所属変更となりますが,私自身は部屋の引っ越しも無いので仕事だけが押し寄せてきたという感じです。

 さっそく新入生の担任を仰せつかり,いろんなオリエンテーション行事に顔を出したり,先日も宿泊セミナーに参加するなど担任業務でくるくる回っていました。本日,ようやく普通の日曜日を過ごしていたところです。

 今年度はまだ始まりませんが,来年度になると専門ゼミナールを受け持つことになります。

 そのため,私の研究室は「りんゼミ」ということになります。

 「りんラボ」でやってきた研究室やブログの名称を変えるかどうかは決めていません。

 最近の私の研究関心が文系寄りに戻っていることを考えると変えた方がよいのではないかとも思います。一方で,アプリ開発や工学的な視点での探究も続けたいと考えているのでラボの名称を残してもよいのではないかとも思います。しばらくは考え中にしておこうと思います。

 さて,来週末あたりからお出かけが増えるので,またバタバタした日々となりそうです。

アプリやサービスをレビューするということ

 日頃,教育と情報のフィールドを眺めていると,様々な製品やサービスに触れることになります。自分に合っているものを選択できるというのが一番よいことなので,基本的には「あるべき」形が一つに定まることはないと考えています。

 しかし,教育関係のアプリやサービスについて評価したり論じる必要もあるため,私なりにレビューの観点を持たなければなりません。とはいえ,これも固定的な観点があるというわけではありません。対象のアプリやサービスの目指しているところで評価するに当たって,次の問いかけを軸にして観点を探していくことにしています。

 「なぜ他の方法や形式をとらず,どんな理由でそのようになったのか」

 この問いかけに尽きます。

 私個人は構造がシンプル(簡潔)で柔軟性があり,飽きのこないデザイン,外部に対してオープンなものであることを嗜好します。その方が利用者側として「分かりやすい」と経験的に感じているからです。

 しかし,もしそうしない理由が他にあるのであれば,その理由を尊重すべきと考えています。つまり複雑なものになった理由が目指すものに照らして納得できれば,そのことを否定はしません。ときに簡潔さと柔軟さは相反要素になりますし,バランスの問題は常に悩ましい論点ですから。

 けれども,ときどきその理由が見えないものにも出くわします。

 他に分かりやすい方法がありそうなのに,そうしなかった例を見ると,その理由を探ろうと試行錯誤したり想像を巡らせるのです。アプリやソフトの場合は,プログラミングのレベルに遡って,たとえば「基本ソフトの制限だから」とか「設計上で別々に扱わざるを得ないから」とか,考えられる理由があります。それが納得できれば仕方ないことになりますし,納得できなければ努力が足りないということになります。それはそのアプリやソフトが何を目指しているかによるわけです。

 ネットサービスの場合も設計やプログラミングの話がありますが,サービスを利用することで,利用者がどのような行動をとって,どう変化したり,どう利用を継続していくのかという利用モデルやユースケースといったものを描いて,それが納得できるものかを検討することになります。たとえば授業支援システムの類いを利用すると先生や児童生徒はどんな行動を強いられたり,どんな学習活動を実現できて,その後もどのようにサービスと関わっていくのかを想像しなければなりません。それが現実的か非現実的かを見極めるわけです。

 教育工学という学問は,まさにそういう研究をしているものということになりますが,実験環境を整えて統計的な調査をするという次元に至らずとも,「なにゆえそうなのか」という問いかけはいくらでも可能です。場合によっては哲学的な問いかけとして考えることもできると思います。

 私のこうしたスタンスは,レビューを文字にすると相手に対して厳しい批判になってしまうことは重々承知しています。ダメ出しばかりしているように読めるのは私の文才の無さゆえですが,しかし,「なにゆえそうなのか」という問いかけはとても大事だと考えます。

 もちろん多くの場合で「なにゆえそうなのか」という問いに答えがないこともあります。考えていなかった,気づいていなかった,分かっていたけどできなかった,そう問う必要はなかったから…そういう答えもあり得ます。ならばそれが現時点での問いへの答えというだけのことです。

 「なにゆえそうなのか」という問いを踏まえて,その後,アプリやサービスがどう更新されていくのかが淡々と評価されていくわけで,悪くなるのか良くなるのかは,その時々の評価結果次第ということになります。

 そう考えると,巷のアプリストアで書き込まれているアプリレビューの内容は,レビューする立場としてもう少し考えてから書いて欲しいと思えるものが多すぎます。「使えね,氏ね」なんてレベルのものはかつてより少なくなりましたが,それでも感情丸出しのものは今も少なくありません。

 プログラミング教育に注目が集まっているような雰囲気もありますが,そのような取り組みの中には,同時に他者のプログラミングに対する視点を育むということも含まれてくると思います。単にプログラミング言語を習得し,ソフトウェアの構造を知るだけではなく,その知識を踏まえてソフトウェアやプログラミングの文化をどう育んでいくのかという考え方や態度の面についても関心を高めていく必要があると思います。

 私自身もダメ出し文章が多いことを自戒しながら,もう少し建設的なレビューを会得したいなと思います。

[memo]教育とICT界隈の素朴概念

 私たちは経験や過去の出来事を通して物事の理解をすることがありますが,そのよう日常的な経験から育んだ考え方を「素朴概念」という風に呼びます。素朴概念は日常の中では通用しているようにみえても,よくよく全体を学んでみると誤解を含んでいた可能性があるというものです。

 教育とICTの界隈で,「そうとも言えるけど実はそうでないこともある」「いま起こっていることの一因はこんなことでもあった」「かつてはそうだったけれども,今はそうではなくなっている」というような事柄をメモっておこうと思います。

授業でのICT活用 → 理解が深まる授業 [× 授業ICT活用 → 学力向上]

ICTを介した他者への依存/他者からの承認の欲求の顕著化 [× ICT依存]

 

因:教員にICT機器を使い倒させて善し悪しを確かめさせていない 果:教員がICT活用に不安で消極的

因:モバイル端末による学習を提供できていない 果:モバイル端末はゲームにばかり使われる

 

今:ソフトウェアによるネットワーク構成の切り替え  旧:物理的なネットワーク配線による構成

 

コスト[学習コンテンツへのアクセス促進 > 有害サイトのフィルタリング対策]

信頼性[クラウドサーバーの保守とデータ保管 > 自前サーバーの管理とデータ保管]

漏えい対策のしやすさ[クラウドストレージ > USBメモリ]

Windows 10がもたらす転換

 教育とICTに関わる以上,市場に投入される製品と無関係ではいられません。

 これまで私たちは「コンピュータ」を一つの箱に入った汎用電子機器として扱う時代を過ごしていました。当初はフロアを占めるほどの大規模なシステムだったものが,電子工学の進歩とともに小型化が進み,いまやスマートフォンとして手のひらの上に乗るようになりました。

 そういった「箱の中のコンピュータ」という捉え方を軸にしていた時代には,基本ソフトと呼ばれるソフトウェアが大きな関心事だったこともよく知られたことです。オペレーティングシステム(OS)とも呼ばれている基本ソフトとして,「UNUX/LINUX」「Windows」「Mac OS X」「iOS」「Android」といったものが知られていますが,実はその他にも多くの種類が存在し,必要に応じて様々な場所で使われてきたのでした。

 学校のパソコン教室や普通教室へのコンピュータ導入の際,この基本ソフトの選択は,一般的には市場占有率の高い「Windows」を選ぶことが多くありました。それだけ利用率が高いため,多くの業者も対応方法やノウハウを保有していることも理由です。それでも実際には,バージョンアップという改変が何度かあり,新しい機能や知識を学ばなければならないという手間はあったわけです。これに対抗する位置にあったのは「Mac OS X」ですが,近年認知度は高まってはいるものの,市場占有率や学校導入率は小さいのが実状です。

 その後,スマートフォンやタブレットといったモバイル端末の市場を切り拓いた「iOS」(iPadの基本ソフト)が注目を集め,一気に市場を席巻しました。その後は対抗品である「Android」が躍進したため,市場における勢力関係は拮抗しているといったところです。パソコン用基本ソフトである「Windows」や「Mac OS X」は外野から連携を強めようとしてきたわけです。

 要するに,私たちがパソコンやモバイル端末を扱う際には,「基本ソフト」が何かを気にしなければならない世界が広がっているということです。

 ところで,すでにコンピュータは日常生活で使う道具の中に埋め込まれ,それらがつながるようになってきています。パソコンとモバイル端末もインターネットのサービスを利用するために改変され,Webサイトが閲覧できる機能さえ最低限備えていれば,情報活用作業の多くができるようになっています。これは基本ソフトやそれに対応するソフト/アプリは重要でなくなってきたことを意味しています。インターネット上のサービスがそれを代替するからです。

 インターネットのやWeb技術こそが新しい時代の「基本ソフト」であって,それを基本ソフトとは呼ばず「クラウド基盤」と呼ぼうというわけです。

 一つ一つの具体的な機器や端末を動かす部分には依然として基本ソフトが存在しますが,それはクラウド基盤に接続するための条件でしかないというわけです。

 こうした流れが「iOS」や「Android」の普及を後押しし,「Windows」の勢いを衰退させ,「Mac OS X」などにも注目を向けさせる状況を作り出したのです。私たちが使いたいのはインターネットのサービスなのだから,それに都合のよい機器と基本ソフトであれば何でもよくなったわけです。

 しかし,現実はそれほどうまくいきません。まだ途上であるということもありますが,インターネットに接続してWebを閲覧できるといっても,個別の機器やソフトの性能や癖の違いによって,同じサービスを同じように享受できないことも多々あります。対応機種やソフト,あるいはバージョンが限られるといった形で制限を受けます。

 ここに「基本ソフト」を統一する余地が残っているというわけです。

 何か一つの基本ソフトが占有する状態にすれば細かな違いを気にする必要はない。そして今まではバージョンアップという改変によって新旧の差が生まれていたものを,これからはインターネット経由で無料で自動的にバージョンアップし,みんなが快適にサービスを利用できる状態を維持した上で,サービス利用料でビジネスをしようという考えが主流になりつつあります。

 それを実現しようとしているのが「Windows 10」という新しい基本ソフトであり,それは「クラウド基盤で動くサービスを利用するための基本ソフト」として再定義されました。

 いままでの定義「箱の中のコンピュータを利用するための基本ソフト」からの転換です。

 「Windows 10」はパソコンだけでなく,スマートフォントタブレットなどのモバイル端末にも共通に開発されています。そこで同じアプリを共通して動かすことができるとされています。今まで以上に機器の連携はスムーズになるのが特徴です。それらはすべてインターネットを経由して有機的につながるわけです。

 これはコンピュータとネットワークの技術が生み出す一つの理想像ではあります。

 Microsoft社はさらに会議のコラボレーションが促進することを目指した新時代のホワイトボードともいえるSurface Hubという機器を発表したり,専用のヘッドセットをつけることで見ている空間に3Dホログラフィックを合成して操作できるデバイスを発表しました。これらすべてがWindows 10で制御されることになります。

 通信さえできればあらゆるところでインターネットが利用できるのと同じように,あらゆるものでWindows 10という基本ソフトを利用できるようにする世界。そういうことが起こりつつあります。

 あらゆるものがつながり制御できる利便性を認めつつも,私自身はそのような地続き的なサイバー世界にどちらかといえば不安を抱きます。たとえばウイルスソフトもあらゆる機器に届くという事態になって被害が出る時の規模も桁違いかも知れません。

 インターネットで接続されている部分に限定しても,私たちは十分に制御できているとはいえません。いまは少なからず分断があるからこそ,かろうじて余裕を確保しているような気さえするのです。

 もしWindows 10が率先して描くような世界がますます現実化した時,私たちはどのように地続き的なサイバー世界と向き合えばよいのでしょうか。

 今回のWindows 10の発表は,近年衰退していたMicrosoft社がいよいよ反転攻勢に出たというビジネスストーリー的な面白さや,技術的なチャレンジといった興奮をもたらすニュースではあるですが,一方で,いよいよ未知の世界へと足を踏み入れる時期がやってきたことを告げるものでもあり,個人的には不安を感じたニュースでした。

 そもそもこれから学校にパソコンを導入する時,こうしたネットワーク中心の発想に転換した機器に対応できるだけの準備が教育委員会や関係者にあるかどうか,そういうところからして心配になっています。